Shinya talk

     

 

2015/01/20(Tue)

それはアカンやろう!三連発。(CatWalkより転載)

朝から家を出て昼に三菱一号館美術館の高橋(館長)君と丸の内でランチ。


彼はかねてより私の展覧会をやりたいと言っていて、そのすり合わせもあるが、こういった美術館のローテーションは長丁場で、彼の心づもりでは2020年をめどにしているらしい。


後、久しぶりに丸の内方面に来たので、銀座に向かおうとすると、香港からやって来たというコスプレイヤーが東京駅の前で踊りながら記念撮影をしている。


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船長的には「これはアカンやろう」ではない(スマホで)。


香港コスプレイヤーと少し香港デモの話をし、その先を歩いていると珍しく街頭の二人の靴磨きに出くわす。


150120-2.jpg(スマホ)


昨今、街頭の靴磨きに出会うことは希で、60代とおぼしき靴磨きの方の磨き台につい乗せたのだが、ここが運命の分かれ目。


ここで久しぶりの怒り心頭、街頭の真ん中で大説教をたれるはめに。


靴を台に乗せた。


ところが彼はいきなり指に巻いた布でワックスを付けはじめたではないか。


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いきなりワックス!


今日の「それはアカンやろう」のはじまりである。


「おいコラおっさん、何やってるんや。ちょっと待たんかい!」


だがこのおっさん強引な野郎で手を止めようとしない。


船長は靴台から靴を下ろす。


「お前、靴磨き何年やっとるんや」


「50年やってるからね。安心してな」


ただの素人が何か言ってると言う感じである。


「バカ野郎!手順が無茶苦茶やないか。


まずブラシやろ。


まず手ブラシで靴に付いた汚れとか土埃を綺麗に落とす。


これ基本やろうが。


それからな、お前いきなり布でワックスつけよったが、それも大違いということすらわからんのか。


指でワックスつけても小さなへこみとか皺にはワックスは入らんやろ。


まずそこの柄付きブラシでワックスを丁寧にまんべんなくへこんだ部分や襞の部分にも入るように塗り込む、それからが布や。


お前客なめてんのか!」


とまあ、相手が路上の靴磨きだから乱膜調全開になったのではなく、こいつ昨今の客の無知をいいことにいきなり手抜きに出たからである。


前に書いたエッセイの中で代々木のたこ焼き屋のたこ焼きにたこが入っていないのを見て野郎言葉が出たがあのシチュエーションと同じである。


ここで靴磨きの1から10までをたたき込むように説教したわけだが、最初は素人の駄弁と軽んじていたオヤジもしまいには、勉強になりましたと言い、金はいらないと言い始めたが700円のところ1000円渡して「自分の職業に誇りを持ちなさい。靴磨きも文化なんや。靴磨きがごまかしやるような世の中は俺も本当に哀しいんや」とその場をあとにしたのだが、この日の「それはアカンやろ」はそれに止まらなかった。




のちに銀座まで歩き、久しぶりに震災の年に「死ぬな生きろ」の個展をやった永井画廊に立ち寄った。


ダウン症の書道家金澤翔子の展覧会をやっているからである。


私は何年か前に彼女の書を見たとき、その直球勝負に感銘を受けたのだが、なんと永井画廊のそれは全部ダメだった。


書に慣れ字に慣れている。


一点も心を動かされるものがない。


というより彼女には何かが起きているのではないかと思わざるを得ない。


画廊主の永井さんに聞くと彼女はヘンに有名になって忙しいらしい。


ニューヨーク公演も控えているという。


私はふと山下清のことを思い出す。


山下の放浪の時のちぎり絵は素晴らしい。


だが有名になってパリなんかに行っていっぱしの画家きどりになった時から絵が形骸化しはじめる。


帰りしなに永井さんから一点の絵葉書を見せられる。


「これどう思います。写真の世界ではこんなこと起きるのでしょうか」


見せられたのは彼女が大筆を前に置いて正座して手を合わせている写真なのだが、彼女の周りには後光のようなフレアーがある。


そしてその下に「心」という書。


「お母さんがマネージメントをしているのですが、これは彼女を写真に撮ったら後光が写っていたというんです。そういうことって起きるのでしょうか」


私は写真を見て即座に「起きません」と言った。


というより「それはアカンやろ」と“哀しんや“が同居してしまったのである。


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画廊にあった絵葉書にはご丁寧にもこの写真の下に「心」の書。




彼女の膝元の前の床は幾分暗く、後ろの床が明るいところから、彼女の体の後ろにスッポトライトが仕込まれ、その壁の光の跳ね返りが床を明るくしている可柏ォが示唆される。


世間はダウン症というような身体的マイナスを逆に天才という言葉を結びつけ、あまり神格化するのはまずいんじゃないかと、ちょっとそんな思いも持っていたものだから、そういった世間オーラの波に応えるかのようなこの”後光写真”。


それはいくら何でもアカンやろうと、船長は思うのである。


そしてせっかくいい書を書く子が世間の期待にお上手に応えてあの山下清のように書の形骸をなぞるようなことはしてほしくない、と切に思いながら帰宅したのだが、ここでも今日第三の「それがアカンやろ」が待っていた。




帰宅してニュースではじめて知ったのだがイスラム国による日本人処刑前図のことである。


つい昨日「世界各地で散発しているイスラム関連のテロはおそらく今後さらに思わぬ場面展開を見せる可能性があり、また日本も人ごとではないという局面に立たされないとは限らないという意味において、これからは平成日本人の“見ざる言わざる聞かざる”ではこの受難世界を乗り切ることは出来ないだろう」とトークで言った舌の根も乾かぬ内のこの緊急事態。


ただし「それはアカンやろ」とはイスラム国に発した言葉ではなく。安倍首相に発した言葉である。


ニュースではちょうど記者会見をやっていて、この絵を見て私はゾッとした。


会見場壇上にイスラエルの国旗と日本国旗が並立掲揚されているではないか。


2国間の国旗の「並立掲揚」は「交叉掲揚」と同じ意味があり、お互いが手を組んだと見られてもおかしくはない図なのである。


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かりに安倍首相がイスラエルの訪問時にこの緊急事態が起きたとしても、彼は中立を浮キ意味で政治色のつかないホテルなどの会場で無色の会見を開くべきだったのである。


それがこともあろうにアメリカの一卵性双生児であるイスラエルの国旗と日本の国旗の並立掲揚のもとに会見を開くというこの危機管理の甘さ。


驚きを禁じ得ない。


今回の事件の性格から言って何もイスラエルの国旗を並立掲揚する必要はなかった、というよりイスラム国の神経を逆なでする恐ろしい図である。


そして日本国民ははなはだ迷惑である。


この国旗並立掲揚によって日本国ははっきりとイスラム国の敵であると宣言しているようなものであり(単純な彼らはそう受け取るはずだ)今後この日本国内においてもパリで起こったようなことも起こらないとも限らないわけだ。


余談だが、イスラム国のユーチューブ画像はクロマキー合成であることは首下の影によって疑いのない事実だろう。


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2014/12/17(Wed)

私たちの格差社会は中東やインドやパキスタンなどにおける古代から延々と続く絶対格差社会に比べると可愛いものだ。(Catwalkより)

パキスタンのペシャワールで軍の子弟が通う学校が襲われ、大人を含む141人もの多くの子供が命を落としたというこのニュース。



かりにこれがアメリカや西欧先進国の一国で起こったとするなら世界を震撼させる大ニュースとなるわけだが、この日本でもB級扱いのニュースで終わっている。



それよりもオーストラリアで発生したチョコレート店での人質事件の方が報道量が多かったように思う。



人の命の軽重はれっきとしてこの世界にまかり通っているわけだ。











ただし、このパキスタンの惨事のニュースを聞いて、海の外のことに想像力の及ばない島国においてこのニュースになんらかの注釈を付け加えることのできる人はあまり多くないのではなかろうか。



私はこのニュースを聞いて、まず3年前に中国の一地方都市に行った折に見た不思議な光景を思い出した。





通りの店先に手持ち型小型ミサイルからはじまり機関銃まで物騒なものが飾っていたのだ。

とうぜん日本人の感覚ではこれはアーミーショップですべてレプリカと思うはずであり私もそのように思った。



だがそれはれっきとした実装品だったのだ。



店の中には10代から20代のこの店にはふさわしくない遊び人風の若い店員が手持ち無沙汰な感じでぶらぶらとしていた。



色々と聞いてみるとこれは中国の軍の店ということだった。

というよりデモンストレーションの店で、こういった店は中国全土にあるらしい。



管理人は当然その土地の軍の幹部であり、インタビューを申し込んだが、けんもほろろに断られた。



中国軍はこういった暇と金にあかした遊んだような施設をあちこちに持っているが、キャバレーなどの風俗営業も取り仕切っていて莫大な利益を上げている。



日本で言えば自衛隊が全国で風俗営業を展開しているようなものだから、世界というものは日本人的感覚を尺度としては推し量れないとんでもないことが方々起こっているわけである。











ということで今回のペシャワールの事件になるわけだが、この中国の例がそうであるように、発展途上国においては軍というのは強大な権力機構であり、時には国家政治機構より大きな権力を持つ。

そしてその強大な権力は多くの汚職を生み、私の知るかぎり発展途上国家の多くの軍は腐敗の巣窟であり、これはアフガニスタンにおいても例外ではない。



そういった巨大な権力機構の子弟の通う学校というのはまさにエリート中のエリートであり、このたびはそういったスクールが襲われたということだ。



ペシャワールには二度入っているが、町を歩いていてもこういった土地というのは歴史的絶対的な格差社会であるということが肌で感じられる。



ひるがえって今回軍の学校を襲ったテロリストであるパキスタン・タリバーンの多くの兵士はこの絶対的格差社会における最下層の出身が多い。



日本ではイスラム圏で起こっているさまざまな事件や紛争を宗教的観点からしか報道されない傾向にある。

もちろんそれは殺人にエクスキューズを与えるものではないが、今回の件も含め、こういった事件や紛争を中世や古代から延々として続いている絶対格差社会におけるひずみが情報化社会において覚醒され、顕在化したという視点も持つべきなのである。


     

 

2014/12/15(Mon)

痛快である。(Catwalkより)

自公大勝大勝と沸き立っているが、大勝でも何でもなく、先のトークで空気選挙と言ったように空気がノンベンダラリと微動しただけの話。



それも選挙前は各マスコミは自民だけで300議席と予測していたが結果は逆に公示前の293議席から2議席落として291議席になっているわけだから大勝ではなく微後退である。



その分公明が+4議席で穴を埋めたというだけの話。



しかしこの何も動かないまったり感は何だ。



空気の微動というより国会内で空気が腐ったようにどんよりと澱んでいると言った方がいいだろう。



野党もしかりである。



マージャンのパイが各野党間でこれもだらだらと動いただけの話。



摺り足歩行の石原(引退)と目やにの目立つ平沼の率いる次世代の党の”次世”とは私は”あの世”と思っており、早晩なくなるだとうと予測していたら案の定19議席が17議席減らし2議席とどうやら本当にあの世に行った。

これはよしとする。

そしてその浮遊霊となった17議席が野党間に取り憑いただけの話である。



共産の倍増は安倍独裁批判票だろう。

それはよしとする。













それにしても、私は前々から安倍晋三というのはずる賢い男だと思っていた。

11年前に小泉が北朝鮮の拉致被害者交渉に行ったおり、安倍は実務を手がけたが、このとき北は拉致被害者を帰すと言っておらず第三国(東南アジア)で家族と合わせるという合意をした。

だが安倍はこの合意を反古にし、出国したからにはこっちの勝ちとばかりアジア経由で5人の拉致被害者を帰国させ、これがいかにも”手腕”であるかのごとくとうとうと手柄話をしていた。



確かに拉致被害者は不法に拉致されたのだから合意を破って帰国させてもいいという考えも成り立つが、その時、安倍自らがしゃべる手柄話を聞きながら、相手が無法国家であれば約束を破ってもいいのかと割り切れないものを感じ、その時以来、この安倍という男の目を見るようになった。



テレビに映る安倍の目は今でもときおり狡猾な視線を走らせる。



今回のだまし討ちのような解散劇はまさにそういう意味では狡猾な目を持った安倍の真骨頂ということが出来るだとう。













どんよりと澱んで動かない空気。

ずる賢い国家元首。



胸の悪くなるような選挙ではあったが、マスコミがなぜか触らない画期的で大きなムーブメントが起こりつつあることを私たちは見落としている。



それは沖縄の”治外法権化”とも言うべき動きである。



先の沖縄知事選以降、沖縄は何かを決断したかのようにひとつの独立した船のごとく大きく面舵を切った。



そして今回、自民は全4選挙区で負けるという歴史上かつてないことが起こった。



沖縄の人々にとって現政権の自民が国家であり権力であるとするなら、沖縄は今回の選挙において反権力、反国家の体制を確立したということだ。



日本の中でこういう治外法権地域が生まれたということは大変なことなわけだが”本土”のメディアは戦後政治がそうであるようにこの場に及んでも沖縄軽視の感覚が抜けきれないようだ。



私たちは本土の空気が腐ったようにどんよりと澱んでいるこの忌むべき時代の中、南の島の空気だけは大きな竜巻を起こしたということを銘記すべきである。


その意味において「この道しかない」は沖縄の檄文。

私にとって今回の選挙は劇的に痛快なのである。

     

 

2014/12/09(Tue)

ものみな盲目の世の中において正論は惨敗を見るを理(ことわり)とするかのごとき天地真逆の世の中で。(Cat Walkより)


時代の潮目というものは時に残酷なまでにくっきりとした断層を描くものである。



高倉健(享年83)に数日を置いての菅原文太(享年81)の訃報。



二人は典型的な”日本の男”を演じた。



この時代の男はすでに草食系男子という言葉が生まれるほどやさ男が主流。



女のように化粧をするのは当たり前。



以前、綾野剛の人間ドキュメントの番組に出た時、私たちはマリーナの船上で会ったのだが、船で作業をしながら待っていると彼は黒い日よけ傘をさしてスタッフとともにやって来た。

対談のおり、近くで見るとその肌には日焼け止めクリームがびっしりと塗り込められていた。



彼とは何度も会っているが、何か変わったなと感じた。



かつて男というものはトラック野郎を演じた菅原文太のように脂ぎった黒い肌が格好良かった。



だが昨今、男は女のように白い”お肌”が主流らしい。



まあそれはそのどちらが良い悪いと裁量すべきものではないと思うが、その肌の色ひとつとっても時代の潮目が変わったということだろう。













それでは、その日本の典型的な男を演じた二人の任侠肌の男が本当に男らしかったかどうか。



私たちは男を演じる彼らの虚像を見ていたのであり、実際に本人が男らしかったかどうかは薮の中である。



だが私には少し彼らの実像と袖振り合う場面がなかったわけではない。



ある日、高倉健と共演した女優と食事をしながら話していたおり、彼女は思っても見ないことを言った。



健さんは酔うと下ねたの話ばかりした、というのである。

男のように気っ風のよい彼女の言い方の中に”下ねたを得意がって話す男の女々しさ”という感触が感じられた。



それは人を介しての実像だが、なぜか私個人はその話が妙に腑に落ちた。



それはなぜだかわからない。



なんとなくなのだ。











菅原文太の実像に関しては高倉健よりも信憑性のある感想を持つことが出来る。

4年前、私は彼と会っている。



確かTBSだったか彼は長年本をテーマとしたラジオの対談番組を持っていてその番組のオファーを受けたのである。

私が当時出していた『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』をテーマとするということで、あの無骨とも感じられる菅原文太がこのささやかな人情の機微を描いた本をどのように評するのか興味を抱いたこともあり、出かけて行った。



収録室は体育館のように広いところの隅っこという変わったシチュエーションということだけを鮮明に覚えているが、なぜか彼との話の内容をよく覚えていない。



覚えているのは彼が収録の終わりの方で私に苦言とも受け取れる(決していやな言い方ではないが)注文をつけたということである。



驚くべきことに彼は私が80年代に出した『東京漂流』に言及し、あの本から今度の本を読むと藤原は社会から身を引いたのかのように思え、それが寂しい、というような意味のことを言った。



私は彼がそのような論評をすることに驚くとともに、この人はただの俳優とは違うなと思った。













その一件が示すように、福島第一原発事故以降、晩年の菅原文太は身を呈して社会にコミットした。



都知事選にも反原発候補を応援し、辛酸をなめた。

また先の福島県知事選にも反原発候補を応援し、ここでも辛酸をなめた。



そしてすでに体の変調を感じながら「弾はもう一発残っとるでよ」の言葉とともに沖縄知事選に馳せ参じ、ここでは過去の辛酸を打ち消す成果をおさめた。



私は彼の実像とじかに接し、晩年の行動を見るにつけ、やはり彼は”男”だったとの思いを新たにする。



虚像と実像の間にズレがないのである。

そして晩年は忘我利他(われを忘れ他の利を思う)に徹した人だったとも思う。

つまり憂国の情に突き動かされた彼はやはり古き良き任侠の人だったと思うのである。



そしてその死の直前に沖縄戦で彼の撃った一発の弾が的に命中したことは、救いだった。



このものみな盲目の世の中において正論は惨敗を見るを理(ことわり)とするかのごとき天地真逆の世の中である。



惨敗に惨敗を重ね、日の目を見る見ることなく国を憂いたまま彼が逝ったとするならこれほど哀しいことはなかった。



おめでとうと言いながら、ご冥福を心からお祈りする。



     

 

2014/12/02(Tue)

下手でもいい、自分らしい、その人の生き方の見える言葉や字(書)を書く人が早く出て来ないと日本は本当に危ない。(CatWalkより転載)

争点大アリの香港抗争から日本に帰ってくると安倍の党略からはじまった”争点まるナシ”の気の抜けた”空気選挙”がはじまろうとしている。


こうした争点のない”燃えない選挙”でかえって浮き彫りとなって見えて来るものは与野党それぞれの党首の人間としての器である。


面白いことにまがりなりにも争点のある選挙では、それぞれの言葉にもそれなりの熱がこもり、一見それがその人間の人格や器のように見えるものだが、争点のない選挙ではこの人たち、発言内容がないから中身が空っぽのただの『紙風船』のように見えるから不思議である。


今日の日本記者クラブ主催の党首討論会で居並んだ会見でもそれぞれの党首の言葉は口からただのパクパクと空気が出ているとしか思えない。


そんな場面が見えると、本当はこの人たち政治的大義名分がなくなってしまったら意外に人間としては空っぽなのではなかろうか、と思ってしまうのである。


民主党の海江田はもともと紙風船のような男なのでその書はどうでもよろしいが、討論会で掲げた日本国総理大臣の書と言葉が怖いくらい空っぽ。


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コラムニストの小田嶋隆さんが以前、安倍首相から田中英寿やEXILEまで「夢」「勇気」「仲間」「絆」「寄り添う」など何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉が、政治やビジネス、ネット、J-POP界隈に蔓延して日本にポエム化現象が起きていると指摘しているが、今日の安倍首相の掲げたカンペは自らが無内容なポエム人間であることを宣言してる。


http://toyokeizai.net/articles/-/38824


以前彼が首相になった折も「美しい日本」というこれも無内容なポエムを掲げてこの人の空っぽぶりをあからさまにしたのだが、その後病気を克服し再度首相になってアベノミクスという何やら意味ありげな経済造語(多分ブレーンが作ったのだろう)を掲げたのを見て、この数年の苦渋の中でそれなりに大人になったのかも知れぬ、と思っていたらまた今日の無内容なポエムである。


どうやらこの人ぜんぜん「ポエム人間」から脱していなかったらしい。


さらにはこの字(書)がもう目が当てられない。


まさにお習字の見本字の上をなぞったような字であり、この人が自分の意思で道を切り開いた人物ではないことを、この書は如実に現している。


さらにいけないのは自からの無個性をなんとか取り繕おうとするためか”無”だけをヘンな略字で書いていることである。


書の世界ではひとつの句に略字を採用する場合、そのすべてに通底する筋目が必要で、無を略字で書くなら”道”も略字でないとアンバランスである。この書を見る限りこの人の心技体もバラバラとしか思えず、こういう人が日本を牽引するのかと思うと空恐ろしい書ではある。


この空っぽの言葉と書を見てつくづく思うのは下手でもいい、自分らしい、その人の生き方の見える言葉や字(書)を書く人が早く出て来ないと日本は本当に危ないということである。


     

 

2014/10/14(Tue)

ノーベル賞雑感。(Catwalkより抜粋)

マララさんのノーベル平和賞の受賞にはさまざまな批判がある。



イスラム国台頭の最中、対イスラム過激派共闘へのプロパガンダとされた感は確かに否めない。



というより絶妙のタイミングだったと言える。



化学賞などと異なり、この平和賞が久しく政治的道具とされていることは佐藤栄作のようなゴロツキ政治家が企業を後ろ盾の多額の裏献金によって受賞していることからも明らかだ。



また今回、日本の”勇士”は日本国憲法第九条を平和賞の対象として申請したが、かりにこの第九条が世界に類を見ない”理念”であったとしても、それをノーベル賞の対象として申請することそれ自体が”政治動き”であり、九条の理念を汚すものだ。



これは日本人すべての上にある理念であり、一部の県人による富士山の世界遺産申請同様、一部の人間によって勝手にノーベル賞候補として申請されても困るのである。















民族衣装を纏った世界の悪と戦う汚れなき少女の持つ不屈の魂と勇気。



マララさんの場合は欧米の価値観や欧米主導の政治のイコンとなるにはこれ以上にない”道具立て”を所有していた。



そしてまた少女はその”お膳立て”に十分すぎるほど応えている。





私は彼女を見ているとついインドやパキスタンの旅を思い出してしまう。

なぜかあっちの方にはこういう小娘がよく居るのだ。



エリートの子供で、学校の成績のよいらしい歳の端もいかない10代の小娘が自信たっぷりに大人顔負けの饒舌な口調で(稚拙な)論理を振り回す。



まるで街頭の香具師ではないかと思えるほど口八丁手八丁だ。



その過剰な自己主張は一体どこから出ているのだろうと思うことがある。



日本にあまりこういった10代の小娘がいないので想像がつかないだろうが、旅の中でこういう手合いが出てくると辟易する。



話に調子を合わせていると、自分の都合のいいように話をねじ曲げ、人の優位に立とうとする。



マララさんもここのところ欧米世界の要請に応えるように自己ヒーロー化に向かっての言葉の脚色がエスカレートしている。





もともと彼女の存在が世の一部に知られたのは彼女の住む地域がタリバン運動に席巻され女性の教育が禁止されたおり、イギリスのBBCの依頼によって現状をブログに書いたことがきっかけだった。

彼女はその時、スクールバスでの通学にビクビクしている、という発言をしている。

そしてそのコメントによって彼女は特定され、狙撃された。



わずか11歳の子供である。

ビクビクしているとの発言であっても現地の状況を考えると勇気ある発言であり、それは彼女の偽りのない本心だろう。

その折の狙撃される前の彼女のポートレイトを見て私は汚れのない綺麗な子だとも思った。





だがそれから6年、彼女は欧米の”マララ・ヒーロー化計画”に応えて饒舌と脚色をエスカレートさせて行く。



その真骨頂がノーベル平和賞の受賞の弁の中で出て来た以下の文言である。



「私には黙って殺されるか、発言して殺されるかしか選択肢がなかった。だから私は立ち上がって発言してから殺されようと思った」



まさに世界を唸らせるサビの効いた文言である。



情報の溢れるこの情報化社会においては象徴となるような有効なワンコピーが功を奏すと言うことを十分心得たフレーズでもある。



ひよっとしたら広告代理店が一枚噛んでいるのではないかと思わせるほどの出来映えである。



ふとそう思うのは受賞の弁を全文読んでみると非常に優等生的平板なものでありながら、このフレーズだけが全体から浮いたように”高等”だったからだ。



いやかりにそれが彼女自身が作った”コピー”であったとしても、あの”ビクビク”から”殺されようと思った”のわずか6年の間に彼女の身に何が起こったのか。



それはそのわずか6年の間の少女のポートレイトの変化に現れていると写真家の私は見る。





     

 

2014/10/02(Thu)

半身を病に侵された私たちが息する異様な臭いの空気の中で。(Cat Walkより抜粋)

盟友の瀬戸内寂聴さんもそうだが、戦前の日本を識っている年齢の方々は口をそろえて今の日本の空気は戦前の似ているという。



私は終戦の年の生まれだから当然戦前の日本の空気は知るよしもないが、戦前に似ているということは「戦争に向っている」ということであり、戦後70年の平和を享受して来た私たちには今ひとつその危機感にリアリティを感じない。



まさか戦争など起きるわけがない。



まさか徴兵制などが復古するわけはない。



そんな感覚が頭のどこかにある。

私の場合もそういった一抹の気分がないわけではない。



だが、昨今の日本の状況を見ると、それが即戦争に結びつくかどうかは別として”異様”な空気があの御嶽山の蒸気のように、とくに為政や言論界に充満しつつあると思わざるを得ない。



集団的自衛権や秘密保護法の強権的立法化はもとより、福島第一原発事故以降年々強くなる傾向にある原発批判封殺。民俗排他運動(ヘイトスピーチ)の過激化とそれに対する政府要人の黙認。



この8月には国連人種差別撤廃委員会が日本政府に対して、ヘイトスピーチ(憎悪表現)問題に「毅然と対処」し、法律で規制するよう勧告する「最終見解」を公表したが、これを政府は無視しているばかりか、一部の人間は国連が極左の巣窟となっているというようなトンでも発言をしている。



いま自分と意見を異にする者の声を聞く耳を持たないばかりか、それを敵視し、攻撃的な挙動に出る風潮が醸造されつつある。



まさに異様な空気感である。



こういったバランス感覚の喪失というものは先のトークでも触れたように911に端を発する世界的傾向であり、就中日本においてよりそういった傾向が顕著になったのはひとつには311の大災害に原因があると私は見ている。



つまり日本全体をひとつの人体として考えるなら、私たち日本人は手負いである。

右の肩口から腰のあたりまで、つまり体の5分の1に大きな痛手を負っている。

さらにその半身の一部は原発災害によって欠損し、放射能によって膿んでもいる。

そういった大きな病に侵された人体(人間)が健常者と同じようにそこに健全な精神が宿るとはなかなか思い難い。



そしてその人間(日本人)の行状を観察するに、そういった外部から攻撃(震災と原発)に曝され、手負いになった私たちはいま国民レベルの被害妄想という精神の病を抱えているように思われるのである。

そしてその被害妄想の癒えないまま、私たちは追い打ちかけられるように、さらなる自然の攻撃に曝されている。



一人の個人が他者からの攻撃を負うことによって生じるトラウマがのちに他者への攻撃的変成となって吹き出すことを私たちはさまざまな事件現場で目撃するわけだが、昨今の日本人(特定のというべきか)の自分と異なる他者の存在を許さない攻撃性は未曾有のダメージによって手負いとなった人間の中に宿ってしまったきわめて異様な挙動と言っても過言でないだろう。




問題はこの異様な状態が局部世界にとどまらず、政権からマスメディアまで、本来中庸とバランス感覚によって社会に一定の規矩を示さなければならない世界までに及んでいることである。



このことを象徴するのが朝日新聞の誤報問題に端を発する”メディア粛清”とも言える官民一体となった一連の動きだろう。

朝日新聞の誤報はかつてあった”サンゴ事件”のようにみっともない。しかしあらゆるメディアは必ず誤算による誤報を犯しているのであり、ここのところの一連の政権の対抗メディアと目される左派系のマスメディア抹殺の動きは意図的であり集中砲火的である。



それでなくともその前段には国営放送であるNHKは政権の意図的介入によって骨抜き状態となっている。残るは”邪魔なヤツ”は”もの言う”マスメディアということになる。



石原慎太郎は朝日新聞の廃刊を声高に叫び、この意図的な流れはここ数日、同じ朝日系列のニュースステーションの誤報問題にも及び、一部には番組打ち切りという人心誘導的ガセ情報まで流され、右系週刊誌「週刊文春」はお手盛りの知識人有名人のがん首を並べ、ほぼ一冊まるごと朝日バッシングに情熱を燃やしている。


私には今日の新聞の47名の火山死を告げる報道と、その下の我を失ったかのようなアグレッシブな攻撃性の週刊誌見出しが一対となって見えるのである。





これを異様な空気と言わざるして何と言うだろう。



フランスの哲学者ヴォルテールはフランスに封建政治が蔓延する中「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を発した。



だが日本は今自分と反対の意見を持つ者は敵であり許さないという、このヴォルテールの言葉とは真逆の時代を突き進もうとしている。



寂聴さんはある時私に今という時代は大政翼賛会が勢いを増したあの時に似てるわねぇ、と言ったことがある。



だが私は戦前の空気というものを知らない。



その意味において、こういった手負いの身体が生む異様な空気を読む上において、あの時代を知る先達の言葉に耳を傾けることは今必要なことのように思える。



件の「週刊文春」の対抗メディアバッシング特集だが、大半の知識人有名人が大政翼賛的とも言える檄を発する中、1930年生まれで戦前の空気を知る、元「週刊文春」や「文藝春秋」の編集長を歴任した作家の半藤一利さんのみがゆいいつ中庸的意見を述べていたのは救いだった。





                           ◉




半藤一利


今「週刊文春」を筆頭に、読売、産経などあらゆるメディアがワッショイ、ワッショイと朝日批判を繰り広げている。

私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。

これがいちばん大事です。

昭和6年の満州事変から、日本の言論は一つになってしまい、政府の肩車に載って、ワッショイ、ワッショイと戦争に向ってしまった。

あの時の反省から、言論は多様であればあるほど良いと思うのです。



私のような爺いが、集団的自衛権や秘密保護法に反対と堂々と声を出せることは、大変ありがたいこと。

こういう声が封じられるようになったら終わりです。




     

 

2014/10/01(Wed)

メディアが「真実」を伝えない時代における自己防衛としての想像力。(Catwalkより)

至近では広島の土砂災害、御嶽山の噴火災害、と311以降この日本ではまるで憑きものがついたように災害が絶えない。



こういった自然災害に対してコメントすることには無力を感じざるをえないところがあるが、私がこの種の場面でいつも思うことは二次情報を享受することによって生きている私たちは現場のリアリティを無意識的にあるいは意識的にネグレクトしているということだ。

それは311の場合もそうだが、メディア自体が自主規制をかけ、リアリティを消し去っているということでもある。



今回の噴火災害を受け、気象庁の火山噴火予知連絡会の会長の藤井敏嗣という人が記者会見をやっていたが、この会見はそういったリアリティ欠如の象徴のような会見だった。



会見の前に隣のスタッフと薄ら笑いを浮かべながら話していたり、会見では冷静を装った自己弁明ばかりが先に立ち、40数名の人間が地獄の苦しみの中で死んだことに対する哀悼の意が微塵も感じられない。



こういった状況はひとつには当然死者から生情報がもたらされることはなく。噴火災害の生情報が生き残った人のみから取得できるということにもある。



確かに生き残った状況も生やさしいものではなかったことがその話の内容から推察できるが、それでも彼らは生き残ったのであり、現場は死ぬほど過酷ではなかったということでもある。



今回の噴火は地下に溜まった水脈が沸騰した水蒸気爆発らしいが、当然水蒸気の勢いとともに分厚い灰土が猛然と吹き上がるわけだ。



降り注いだ灰は噴火近くの現場では乾いた灰ではなく熱湯によってドロドロとなった泥土である。



そのことは何を意味するかというと、山頂近くでは致死的な濃度の火山ガスとともに熱せられた大量の泥や岩や石が人々の上に降り注ぎ、熱風を吸う気管は焼けただれるということだ。



まさに地獄である。



7〜8合目に居た生き残った人が口々に言う灰煙とは泥土とならなかった乾いた灰が雲状となり、押し寄せて来たということであり、その灰は熱かったというが火傷を負うことはなかったからおそらく50度未満だろう。



私たちやメディアはその生き残った人々の現場の生情報に引きずられてしまが、その生き残った人々の生情報から、その彼方の世界を想像すべきなのである。



それはメディアが「真実」や「事実」を伝えない時代において「真」を知るための自己防衛であるとも言える。



     

 

2014/09/25(Thu)

一人のサタンが現れることによって世界とその細部はどのように変質したか。(Catwalkより)


シリアの対抗勢力への化学兵器使用を含む強引な弾圧。

パレスティナへのイスラエルの徹底的な空爆。

ロシアの強引なクリミア半島併合。

中国のウイグル人虐殺を含む弾圧。

そしてリアルタイムで進行しているイスラム国の少数民族の虐殺などなど。



世界は今血生臭さに満ち、道理が消え、力あるものが力まかせに無理を通す。



それは何も世界紛争に限らず、国営放送への介入や対抗勢力とみなす新聞追い落としなど、この日本においても政権の強権指向がまかり通る。



つまり私たちは今、この“歯止めなき強権の濫用”ともいうべき時代の中に生きているわけだが、こういった忌まわしい時代の動静が何を発端としているのかということに思いを馳せるに、あの911の悪夢に至らざるをえない。



あるひとつの大きな事件や出来事が歴史を変えるというのはこれまでにもしばしば人間の歴史で経験したことだが、2001年のアメリカ同時多発テロ9・11と、その事件後のアメリカのイラク侵略は確実に世界を忌まわしい方向へと変えた。



9・11当時、この事件はそれ以降の時代の流れをどのように変えるかという論議が盛んになされたわけだが、ここ数年、あたかも沈潜していた黒い種子が芽を吹くように9・11エフェクト(結果・効果)が一定の世界現象、あるいは社会現象として立ち現れつつあると私は個人的に感じているのである。



その世界に黒い種子を蒔いたのはあのブッシュジュニアである。



彼は911ののち、世界に向け、きわめて幼稚な言葉を投げかけた。



Devil(悪魔)。



彼は世界を悪魔(テロリスト)と正義に二分し、悪魔の側に立つのか、正義の側に立つのかと、日本を含む西欧諸国に踏み絵を迫った。



その後、日本を含む多くの西欧諸国がイラク戦争に荷担した。



だがその戦争は今では誰もが知るようにアメリカの虚偽によって成された(というよりブッシュコンツェルンの石油利権のための)戦争だったことが今では白日のもとに曝されているわけだが、この強引に強い者が自己の利益のために弱者を力でねじ伏せるあのブッシュの権力の濫用の模倣現象というべきものがここ数年さまざまな形で吹き出していると私は観ずる。



ヒトラーのように一人のサタンが現れることによって世界に混乱が生じるということに準えるなら、2000年代の今日的世界混乱を招いたと言えるブッシュは一人のサタンあるいは、彼自身が他者を名指ししたところのDevil(悪魔)そのものではなかったのかとの思いをぬぐえない。



おそろしいのはそのDevil(悪魔)的感性が世界の抗争という大きなエレメントの中においてのみ再現されるにとどまらず、一国の政治から市井の事件にまでその影を落としつつあると観ぜざるを得ないことである。



その意味において佐世保の女子校生や今日犯人の逮捕された神戸の女児バラバラ事件など日々残虐化する人間行為というものもまた演繹的に911以降の現象、あるいはこの2000年代に一人のDevil(悪魔)が輩出されることによって産み落とされた世界現象の細部と言えるのではないかと考える。



慶賀なことに世界はたった一人の宗教者の輩出によって導かれ、忌まわしいことにたった一人のサタンの輩出によって世界は奈落へと導かれる。



     

 

2014/09/17(Wed)

吉田調書もプリントアウトして製本し、パラフィン紙包みにし永久保存したいものだ。(Catwalkより転載)



吉田調書を入手したので別枠で掲載する。



一旦テキスト処理をしたものをワードに移したのだが、これはソフトによって変換されているために改行が雑で採用しなかった(もしテキスト処理をしたものが欲しい人はメールをいただければ添付する)。



この吉田調書、まだ読み始めたところだが、非常に生々しいというのが初っ端の読後感だ。



この吉田調書というのは民主党政権下ではひた隠しにされ、その後自民政権に変わっても公開されなかったのだが、朝日がその一部を入手し、今回の誤報騒ぎとなった。

ヒョウタンから駒というか、311以降、左右の過剰な対立構造の中で大きな部数減に危機感を抱いている読売は、サンケイとともに官邸から隠密裏に吉田調書を入手し、朝日バッシングの挙に出た。

その信憑性を補完するために官邸は吉田調書の全文を公開したわけである。



つまりここには犬も食わないくだらない争いがあるわけだが、つまりそういう井戸の中の争いの中でヒョウタンから駒のごとく、吉田調書全文が日本国民のすべてが読むことが出来るようになったわけだ。

ありがたいことだ。





読み進めると、スリーマイル島の原発事故、チェルノブイリの原発事故、そして福島第一原発の事故と人類はその歴史の中で3度ほど大きな原発事故に直面したわけだが、現場責任者が事故現場の至近距離で生死をかけた事故直後の経緯のこれほどの詳細な証言を文書に残した例はない。



その意味で冗談ではなく、原発を持つ国のすべての国民が教科書として読むべき文書の世界遺産である。





あの時、政府や官僚たちの嘘の積み重ねの中で、福島第一原発で何が起ったのか、ということを私たちはこの証言ではじめて知ることが出来るわけだ。



私も全文を読むつもりだが、膨大な分量の証言なので、折に乗じて時間のある時々に読まれるとよいだろう。

拾い読みでもよろしい。

個人個人で発見があるはずである。



また今回の朝日と官邸+読売+サンケイのバトル(というより朝日潰し)のネタとされた、東電社員が吉田所長の命令にそむいて福島第二原発に逃げたという誤報は、確かに修正謝罪すべきことだが、こういったことは吉田調書の中では枝葉末節のことであり、ここで一番着目すべきは、あの時、東電本社の意向にそむいて吉田所長が海水注入に踏み切らなかったとすれば、関東圏を含む東日本一帯が壊滅していたという、おそるべき現実が目の前に迫っていたということである。



つまりこのことは日本国が滅ぶことを表しており、また東京を含む2千万人の人間が双葉町や大熊町の人々と同じように逃げ惑う、という地獄絵図が展開されていたかも知れないということだ(米軍はいち早く事故状況を演算し、横須賀基地を引き上げる態勢を取っていたことは記憶に新しい)。



だがこの吉田調書の中にある関東圏を含む東日本が壊滅するかも知れないという吉田調書の核となる証言を読売は書いていない。そして東電社員が逃げたか逃げなかったかという枝葉末節なくだらないことに血道を上げているわけである。



本題はそこじゃねぇだろう。バカやろうと言いたい。



私はかつてトークでマスゴミという言葉を使う投稿を諫めたことがあるが、こういった状態を見るに”マスゴミ”というものは確かに存在すると言えないこともないだろう。


     

 

2014/09/12(Fri)

極端な左右の対立国「の騒音の中で正論が成り立たない時代における矜持。(Catwalkより)



昨日の朝日の記者会見について触れてみる。

今回の記者会見は吉田調書に関する誤報の謝罪会見であり、付録のように従軍慰安婦問題も取り上げられていた。



この従軍慰安婦問題に絡んで同紙にエッセイの連載をしていた池上彰氏の原稿が掲載拒否に合い、その後社内からも批判が続出し、後に一転掲載となったわけだが、この池上彰氏の当エッセイを読んでみると、ただ「従軍慰安婦問題で朝日は誤報を出したのだから謝罪をすべきだ」という別に掲載拒否に合うほどのきわどいことを書いているわけでもなく、大それたものでもない。



先に朝日は従軍慰安婦問題誤報を自ら取り上げ、その検証を行い、社説でも謝罪の意を表しているが、思うに朝日には昨今の時代への見誤りがあるように私は感じた。

311以降、この日本では極端な左右の対立構造が生まれ、いかなる正論もその対立構造の騒音の中でかき消されてしまう時代になりつつあるのである。

つまりこの問題が偏狂な炎上に曝されることは目に見えていたということだ。



今回の吉田調書誤報問題にしてもすでに極右と言って過言ではないと言える官邸が吉田調書を内密に読売、サンケイに流し、朝日糾弾のキャンペーンを張った結果の官邸+読売+サンケイ極右タッグによる朝日潰し事件であり、従軍慰安婦問題においても同様の朝日潰しの意図的な官邸と読売、サンケイの内通がある。



朝日の当日の新聞を読むと誤報を認めながらも従軍慰安婦問題は依然として根深い問題として横たわってるという論調であったわけだが、このご時世、当然の帰結として誤報問題のみが意図的に大きくクローズアップされてしまい、朝日の脇の甘さが目立つ。



かつて朝日は従軍慰安婦問題で安倍個人と対立したわけだが、これを機に安倍(政権)に倍返しされた格好である。

特に極右と呼ばれる一派はここぞとばかりバッシングに出て、朝日新聞不買運動すら提唱し、こういった有象無象の騒ぎの中で、何時の間にか、まるであの沖縄サンゴ事件のような最悪の様相を呈してしまったわけだ。



そんな加熱状況が朝日のトップに少なからぬストレスともたらしているところに池上彰氏のエッセイが浮上し、経営(編集)トップはそれに対して過剰反応してしまったというのが実情である。



重ねて言うが池上彰氏のエッセイは何と言うことのない、ごく普通のアーティクルであり、世間が騒ぐほどのものではない。



しかしまたこういった状況を見るに、やはり朝日自体もまた311以降の人心の硬直化傾向の中に嵌まりつつあるのかも知れないと思わないでもない。



いくら世間の従軍慰安婦問題の加熱状態の中でストレスを抱えていたとしてもあの程度のもの言いに掲載拒否という言わば言論の自由を奪うような行為に及ぶというのは尋常ではないからである。



そういう意味で今回の朝日の挙動は311以降の時代の危うさを象徴する出来事のようにも感じる。

というのは私自身もまた311の年に、この朝日新聞紙上で朝日に対する批判をしており、おそらくその批判は今回の池上彰氏のアーティクル以上に根幹に触れるものでありながら掲載拒否を受けなかったからである。



つまりこの2件の事例の間のわずか3年の間に世間というものは偏狂化するとともにマスメディアもまた狭量化しつつあるのではないかと思わざるを得ないのである。



311の年のこれはインタビューなのでゴツゴツした文章になっているが、その記事を以下に掲載してみたい。















「福島の希望 自分の足で歩くしかない」

藤原新也=写真家・作家



2011−09−13 社会面





先日、主宰するウェブマガジンに、ルターの「たとえ明日世界が滅びようと、わたしは今日林檎(りんご)の木を植える」という言葉を掲載した。

「読んで涙をぼろぼろこぼした。仲間と『こういう世の中だけど、前向きに生きていこう』と話し合った」というメールが来た。

過剰反応かなと思ったが、肩書を見てハッとした。

大学受験生だった。若い人々は人生の出発点で大変な状況に直面しているという当たり前のことに気づかされた。





6月初め、福島市近郊の寺の山の斜面に生えていた樊かい草(はんかいそう、かい=口へんに会の旧字)という植物は、100本ぐらいある草の花びらがどれも妙にねじれていた。

地面近くの放射線量は毎時22〜23マイクロシーベルト。

放射線の影響とは断定できないが、ほかにも桜の花の数と色付きが尋常でなかったり、逆にケシの花が小さく茎も弱々しくなっていたり、植物の異変を1ダースほど確認した。

お年寄りたちに聞くと、いずれも「これまでに見たことがない」とのことだった。



■「被害ある」前提



福島をはじめ世界に大量飛散した放射性物質が、今後人間にどんな影響を与えるか、結局専門家にもよく分からない。

分からないならば「健康被害は起こりうる」という前提での危機管理が原則だ。

今、真っ先にやるべきことは、福島県内の数千カ所に食料放射能値が計測できるベクレルカウンターを設置し、誰もが手軽に利用できるようにすることだ。

100億円程度あればできるだろう。

費用は東京電力が負担する。

子ども手当も全額、福島の子どもの安全対策や疎開費に充てるべきだと思う。



原発事故について「すべての人間が被害者と同時に加害者」という言い方がある。

だが、農耕民族的な「和の精神」では今の問題は解決しない。

原発利権の甘い汁を吸い続けてきた者たちと、福島県飯舘村から生活を捨てて逃げた人々を同じ線上には並べられない。

遊牧民族系の社会のように善と悪を峻別(しゅんべつ)し、断罪するときだ。



しかし、今マスコミはその矛先を本丸ではなく、あさっての方向に向けている。

鉢呂吉雄前経済産業相の問題がよい例だ。

福島第一原発の周辺を「死のまちのようだった」と話したことの、どこがおかしいのか。

ありのままだ。死という言葉が福島県民の神経をさかなでする、という差別用語への過敏が、事実すらも排除してしまう。

「放射能をつけちゃうぞ」という記者との瑣末(さまつ)なやり取りを、重箱の隅をつつくように記事にする神経も尋常ではない。

まるで小学校の反省会の「言いつけ」のようなものだ。

胆力の衰えた幼稚な報道で能力未知数の政治家がたちどころに消えるのは、国民にとってただただくだらない損失だ。



新聞はかつて電力会社の原発推進広告の掲載を拒否していたが、1974年から朝日新聞を皮切りに掲載するようになった。背景にはオイルショックによる広告収入の減少があったと聞く。これまでの原発報道で中立性を損なったことはなかったか、マスコミは胸に手を当て自己検証するべきだ。



■頭より体を優先



しかしこの原発問題、悪いことばかりではない。

お上が信用できないことがはっきりした。

他国が作った憲法という靴を履いて歩いてきた日本人がやっと自分の足で歩くしかない、と気づかされた。

よい変化だと思う。



今、前向きに生きるコツは、頭より体を優先させることだ。

こんな状況で頭ばかり働かせると、悲観の悪循環に落ち込む。

抱えきれない悩みのある人がお遍路で四国を旅すると、何も解決していないのに歩くうちに悩みが軽くなることがある。

体の軸が頭から体に移るからだ。

体は生きようとする生理を持っている。それが「林檎の木を植える」ということだ。



無人の瓦礫(がれき)となった宮城県の気仙沼を歩いていた時、着飾って歩く奇妙なカップルに出会った。

被災後の初デートだった。

声は弱々しかったが、すべてなくなってしまった中で、愛だけは辛うじて残っているんだなあと率直に感じた。

長年、書をやっているが「愛」というベタな言葉は書いたことがない。

この時2人の前ではじめてその文字を書かせていただいた。



原発事故で、多くの人々が東京電力や政府に強い憎しみを抱いている。

だが、何かのきっかけで憎しみも喜びに変わることがある。

飯舘村で避難区域内に居残っていた老夫婦の家を訪れた時、窮状を見かねて財布の中の有り金全部を衝動的に机の上に置いてしまった。

最初は驚いて固辞されていたが、住所を書き「返せる時に返してください」と言うと、「神も仏もない」と言っていた人から鬱屈(うっくつ)が消え、立ち去るときには見違えるほど朗らかさを取り戻していた。

お金の問題よりもそこに気持ちが介在したということだ。

無力感の中にあった私もその顔の変化に救われた。



新政権は、この憎しみを喜びに変えるための試みを有り金をはたき、全力でやってほしい。有り金をはたいても帰りの電車賃くらいは残る。

(聞き手・太田啓之)













「新聞はかつて電力会社の原発推進広告の掲載を拒否していたが、1974年から朝日新聞を皮切りに掲載するようになった。背景にはオイルショックによる広告収入の減少があったと聞く。これまでの原発報道で中立性を損なったことはなかったか、マスコミは胸に手を当て自己検証するべきだ。」

の部分が朝日批判に当たる箇所だが、当時読売はさらに政府と一体化して率先して原発推進に走っていたことからするなら、この箇所は朝日が最初に先鞭をつけたかのように受け取られるということもあり、朝日側は難色を示した。

しかしこの部分を載せなければこのインタビューは単なる綺麗ごとになると返事をし、案外すんなりと朝日はそれを受け入れたという経緯がある(しかしこの記事はパスしてもそれ以降藤原には語らせるなという空気が醸造される可能性はないではない)。



当時のことを(わずか3年前のことだが)振り返るに、もし私のインタビューがこの2014年であったら果たして朝日は掲載しただろうか、と池上彰氏の件を思い起こしながら何か時代がますます危うくなりつつあるように感じるのである。













そうは言うものの、百歩譲って今回朝日のトップが記者会見を開き、マスメディアとしての最低の矜持を見せたことは一定の評価を与えられるべきだろうと私は思っている。



というのは311以降、阿倍政権をはじめとしてあらゆる体制が自からの非を認めない、ごり押しと居座りの風土の蔓延する社会になっているからである。

当然今回朝日攻撃をした読売にしても誤報は日常茶飯事であるが、それに対する対応は微塵もない。

こういったごり押し、居座り傾向は日本に限らず国際政治においても言えることでもある。



     

 

2014/08/27(Wed)

言葉の言い換えによる現実乖離が危機を増幅するという一例としての広島土砂災害。(Catwalkより転載)

広島市の土砂災害は甚大な人的被害を生んだが、この件に関してはコメントする必要性を感じなかった。



それは天災であり、速やかに救助の手を差し伸べる以外、いくら報道合戦が行われようと自体が好転するわけでもなく、昨今の報道は不幸に陥った人をさらし者にしている感さえある。

それは識者のコメントにも言えることで、こういったものに評論を加えることはただ虚しいだけだ。



しかし今日この欄でコメントを加えるつもりになったのはこの土砂災害が起こった八木地区がかつて「八木蛇落地悪谷」(やぎじゃらくじあしだに)という名の土地であることが判明したということを知ったからだ。



つまり昔の人はこの土地が”悪谷”として住むに危ない土地であると命名しているわけだ。

このような”警鐘名”とも呼ぶべき地名はまだ日本各所に残っていて、私の住む房総半島にも大崩(おおくずれ)小崩(こくずれ)などいう、つまりかつて土砂災害を生んだことを示す警鐘土地名が居残っている。





今回大災害になった「八木蛇落地悪谷」はその後「八木上楽地芦谷」(やぎじょうらくじあしや)と改名されさらに現在の八木となったとある。



つまりこの当て字を見ると「蛇(じょう)」が「上(じょう)」となり「落」が「楽」となり「悪(あし)」が「芦」と改名されていることがわかる。

芦は”よし”とも読むから悪(あし)の反対の意味の(よし)としたとも受け取れる。



つまりそれらの漢字の当て字を見ると縁起の悪い文字をことごとく縁起の良い当て字に変えているわけである。



こういった名称の”無害化’がいつごろ行われたかは分からないが、ここにはとくに平成時代になって以降、差別用語にも言えることだが、ネガティブな言葉や名称をポジティブな言葉や名称に言い換えるという、言葉による無害化の氾濫の一環がうかがえる。



つまり言葉の言い換えによってネガティブな現実を遠ざけるという一種の言葉による現実乖離である。



職安をハローワーク、売春施設をソープランド、あるいは少女買春を援助交際などと呼ぶのはその典型である。この言葉の言い換えによって現実を無害なものにする傾向はオウム真理教の殺人にポアという言葉を当て込む犯罪場面にも適用される。



いわゆる平成という時代には明るさへの強迫観念のようなものが底流に流れており(ということは時代が暗いということの裏返しでもあるわけだが)その強迫観念が暗い言葉、危ない言葉を追放し、無害なものに言い換えるという”言葉の病気”とも言うべき現象が氾濫していると言える。



だが言葉を言い換えてもその現実が一向になくなるわけではない。



まったく同じ現実がそこにあるわけだ。

というよりむしろその現実と等価な言葉を失ったがゆえに、現実認知手段や能力を失うという危ないことが起きてしまう。



昨今さまざまな事件の中においてもこの現実乖離が起こっており、それは言葉を失った人間の現実乖離的行動と言うことも出来るわけだ。



私があえて今回の広島の土砂災害に触れるべきだと思ったのは、この一地方においても言葉の言い換えによる現実乖離という同じ現象が起こっているということをその地名の変遷によって知ったからである。



つまり、そういう観点から今回の広島市の土砂災害は天災ではなくあきらかに人災の側面を持っているということである。

     

 

2014/08/21(Thu)

こんな暗い世相の真夜中に宝石のごとく輝く命のレジスタンスを見よ。(Catwalkより)

今年の夏はエンドレスの様相を呈しているようだ。



みなさんこの夏をどのように過ごされたかな。



私は浮雲旅をライブで同時進行的にやる試みをしたいということで旅は九月以降にし、この夏は房総で過ごしたのだが、房総ではもう1ヶ月以上も雨という雨が降らず、井戸の水位も下がり、庭の芝生は青息吐息だ。



お盆を過ぎると蝉の鳴き声もほとんどツクツクボウシに変わるものだが、まだアブラゼミが大音響で合唱しており、その合間合間にツクツクボウシの鳴き声が聞こえるという状況である。

そんな中、広島の豪雨。

そして惨事(合掌)。

格差は社会のみならず気象にも生じているようだ。



また世界地図にも格差が生じており、お盆のユーターンラッシュという平和な光景をよそにシリア、イラクでは大量虐殺が起きている。

イスラム国という新たな勢力がクルド人を大量虐殺をしているという情報は画像のない文字(言葉)情報のみであり、その実態はつかめない。

だがシリアやイラクで三つどもえ四つどもえとなった勢力が処刑合戦を繰り返し、その生々しい映像はこの平和な日本のお茶の間においても見ることが出来る。



同じ時間空間の中におけるこの命の格差が信じがたい思いだが、それは広島とのどかな蝉の鳴くこの房総の間にも言えることである。



そして今日昨日の広島の惨事もそうだが、残念ながらこの夏もよいニュースがなかった。











佐世保での少女事件にはじまり、愛媛市営団地での少女虐待(社会のストレスが弱者家族に凝縮し、それがさらに弱者への虐待につながったと見る)、意味不明と言えばタイにおける人身売買の臭う代理出産、また今の渦中にあるイスラム国に拉致された湯川遥菜さんの案件。



湯川遥菜さんの拉致に関してはまだ世間が騒いでいないその直後に映像込みの情報が入って来たのだが、情報提供に以下のメールを返している。



「この青年何歳くらいなの?

護身のためとは言え、ジャーナリストが自動小銃持っている光景というのははじめてだ。
わけわからないということではタイの24歳青年とダブるな。」




第一報では自動小銃を持っているということより、彼の風貌が妙に気になった。

イラクにおける拉致と言えばCatwalkでもインタビューをした安田純平さんや渡辺修考さんのこと、あるいはまたアレッポで狙撃された山本美香さんのことが思い出されるが、湯川遥菜さんの風貌はどうもジャーナリストではないと感じた。



YouTubeで尋問される彼の英語も稚拙だ。

そのうちに田母神俊雄さんや他の国会議員と握手しているツーショットや軍服姿にサングラスで決め込んでいる妙な写真が出て来て、10年程前まで幕張にあったヒダカヤというエアガンを扱う模型屋のおっさんだったということも判明。



エアガンオタクが実際に実弾を撃ってみたいと熱望するのは想像に難くなく、彼がイラクで本物の銃を撃って得意げに動画にアップしている様子を見ると、タイの青年もそうだが(その行動が人身売買ではなく自分の子孫の大繁栄を図っているとすれば)、どうも昨今の青年の自己証明願望はタガが狂っているとしか言いようがない。



それは311以降タガが狂った日本国そのもののひな形のように私には見える。



極論になるが、推論だと断った上で言うなら、湯川遥菜さんは前線の戦闘に参加したのだと私は見ている。

どうやらお調子者の彼は自由シリア軍の青年と意気投合し、イスラム国との戦線に出陣したと私には思われる。

エアガンオタクのバーチャルがリアルと妙に混濁した一瞬だ。



彼はアブ・ムジャヒド(聖戦に参加する者)の称号を自由シリア軍からもらっており、なぜかアレッポの前線に向かうおり、日本のパスポートを置いて行っている。



おそらくそれは仲間に私は日本人ではなくアブ・ムジャヒド(聖戦に参加する者)の意志を見せる行動ではなかったのか。



海外の危険な場所では唯一日本のパスポートが護身の役を果たすことを考えれば、その不可解な行動はそのように考えるなら整合性があると言える。



彼が参戦した仲間は今、イスラム国に捕虜交換を求めているが、音なしだという。

音なしということはもし湯川遥菜さんが生きているとするなら、周辺の日本大使館か日本領事館に対し、身代金の交渉をしている考えるのが順当なところだろう。

湯川遥菜さんは捕虜交換以上の”タマ”なのだ。

そして何事もなく湯川遥菜さんが解放されたとするなら、その解放にかなりの税金が注ぎ込まれたと見るべきだろう。



報道という使命を背負った安田純平さんや渡辺修考さんが拉致された折、日本は自己責任論で沸き立った。

そして政府も動かなかった。



今回もしこのエアガンオタクに税金が注ぎ込まれるとするなら、本末転倒である。

成り行きを注視したい。















しかしまたこの夏は暗い話題のみではなく、自分周辺を見渡せば希望の持てる感動的出会いというものもある。



つい3日前のことだが、房総の山の木で蝉の孵化を見たのである。

抜け殻はこれまでたくさん見ているが孵化の瞬間を見たのははじめてだった。

こんな日本においても生命は健気にも一所懸命生きようとしている。

10年前だったらそれほどの思いはなかっただろうが、このご時世の中ではその真夜中の孵化の様子を眺めながらガンバレガンバレと声援を贈る自分がそこにいたのである。


以下(写真)

     

 

2014/08/06(Wed)

私たちはメディアが殺人を犯すことも出来るというおぞましい出来事をいま目の前にしている。(Catwalkより転載)


本来なら理研の笹井氏の自殺は一面トップ黒ベタタイトルで報道されるべき事案だが、手元にある今日の朝日新聞夕刊はIT関連トレンドがどうのこうのと言ったどうでもいいような記事が一面トップを飾り、笹井氏の自殺報道は一面左下に収まっている。



おそらく各紙も同じようなものだろう。



それはひとつにはWHO(世界保健機構)の報道倫理ガイドラインに基づき、自殺のニュースは大きく扱わない(模倣を危惧するという表向きの理由がある)という不文律をいつのころからか日本のマスメディアも遵守するようになっているからであり、先の新宿アルタ前で集団的自衛権に抗議して焼身自殺した事件がほとんど無視されたのも、そういった報道力学が影響しているものと考えられる。



私はこの”事件”を世間を騒がせたSTAP細胞問題の中心人物の一人が自殺したという単純事実にとどまらない、その背後にあるメディアの流れに目を向けるべきだと考える。











ひょっとしたらこのトークに接しているかもしれず、プライベートな以下のやりとりを公にするのはいくぶん躊躇したが、これは当該者にとって別に恥になることでもないので書かせてもらうと、今から半年前、NHKのディレクターから電話がかかってきた。



はじめて接触する方だった。



番組依頼の話であり、それも私を船頭役としたドキュメンタリーを作りたいというものだった。

数日後にホテルのラウンジでプロデューサーとディレクターに会った。

彼らは拙著『東京漂流』の話を持ち出した。



彼らの言わんとするところは311以降、今の世の中がひどいことになりつつある。

そこでもう一度テレビで”今”を捉えた『東京漂流』をやってもらえないか、ということだった。

論旨はわかるが『東京漂流』は私にとって過去の産物であり、それに拘泥しすぎている話にはいまひとつ私のノリが悪かった。



表現者というものは日々先を歩いているものだ。

藤原は今、時たけなわネット社会の中における実験であるCatwalkを展開している。



ある意味でCatwalkは2000年代の『東京漂流』であり、そういう今現在の藤原を彼らは果たして知っているのだろうか。

ということでCatwalkのことを話したわけだが、彼らは知らなかった。



それは藤原新也に仕事を持ってくるマスメディア人としてはいかがなものか?



私はやや興ざめして、とりあえず、会員になる必要はないが一時的にでも見ることは出来るのだから、まず藤原新也の現在に接してからまた新たに話を持ってきてくださいと言ってその場をお開きにした。











私が今日この仕事依頼の話を持ち出した意味は別のところにある。



私はその時、彼らと話ながら一線で活躍する若い(それも藤原に仕事を依頼しょうとするようなどちらかと言うと異端な)メデイア人にかつてなく大きなストレスが溜まっているということをひしひしと感じた。



これまでの仕事依頼の折には見られない危機感と鬱屈が感じられたのである。

のちにNHKのOBが連名でNHKの危機を訴えたように、NHKをはじめマスメディアは政権による目に見えない統制と抑圧を今まさに体現しはじめている。



いったいメディアに滞留しつつあるこのストレスが今後どのような形で吹き出すのだろう?。



彼らと会ってのち、私はそんな思いとともに家路についた。











そして今日、あの折の危惧が現実のものとなる。



笹井氏の自殺。



私は笹井氏の自殺をそのような視点で捉えるべきだと考える。







解せぬことがある。



スタッフ細胞問題はすでに過去事象であるにも関わらず、この一ヶ月、マスメディアの中でこの問題が不健全な形で炎上している。





◉7月21日の毎日新聞一面で報じた攻撃的な「STAP論文・疑惑のデータ削除」(この件に関しては武田邦彦教授がYouTubeで以下のように発言している)。



https://www.youtube.com/watch?v=SidrlwUGZgw&feature=youtu.be





◉そして7月27日にNHKで放映されたNHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」。



張り込みで発見した小保方晴子を執拗におっかけ回し、トイレに追い詰め怪我を負わせるという、まるで日本版パパラッチもどきの”おっかけ”をれっきとした国営放送のスタッフがやっているというこの異様な風景。



番組では、2012年4月以降、科学誌に3度、論文掲載を拒否されていた小保方氏を「論文執筆の天才とも言われる」笹井氏がサポートし、論文の評価が一変したと解説。



そのうえで、ほぼ2人で論文作成を進めていた当時の2人のメールとして、テレビ画面にメール文面が映される中、内容を男女のナレーターが意味ありげに読み上げる。


まず笹井氏の「東京出張」と題したメールでは、小保方氏に研究状況をうかがう前段部分の「小保方さん、本日なのですが、東京は雪で寒々しております」「小保方さんと、こうして論文準備できるのを、とてもうれしく、楽しく思っており、感謝しています」と男性ナレーターが妙に抑揚あるトーンで読み上げる。

これに返信したとされる小保方氏のメールは「笹井先生、また近いうちにご相談にうかがわせていただけないでしょうか」と弾んだ声で音読され、暗に男女関係の蜜月を匂わせる。





◉朝日新聞に至ってはこれはデジタルだが、小保方晴子が行き場に困ってAKB48に入るという設定のおちゃらけ記事まで書いて笑い者にしている。





報道の常軌を逸し、自らの中に鬱積したストレスをすでに瀕死の状態にある弱いターゲットに向かってぶつけるかのごとくである。



”臭い何か”が糞詰まりのようにメディアの内臓に溜まっている。



追い詰めるべきターゲットは瀕死の小娘ではなく、別のもっと大きな世界にあるはずである。



しかし卑屈にも彼らは自からの鬱憤晴らし報道に血道を上げている。



そして今日、笹井芳樹は首を吊った。



私たちは歪んだメディアが殺人を犯すことも出来るというおぞましい出来事をいま目の前にしている。





合掌











さてCatwalkスタッフと私は明日から夏休みに入る。



今後ますます海(世の中)は荒れるだろう。



船は旅をする。



だが荒れる海ではしっかりと動じないアンカー(錨)を海底の大地に”打つ”ことが遭難を免れる鉄則だ。



船は動く。

しかし動かない。



皆さんも荒れる海にそのような心がけを持ちながら対処してほしいと願うものである。







(アトリエの波写真)



     

 

2014/08/04(Mon)

秘密保護法とは何ら関係もないにもかかわわらず「そして誰も言わなくなった」危ういこと。(Cat Walkより転載)

8年前に『渋谷』という本を出した直後、その本のテーマが母娘密着だったところから、思いのほか10代から20代にかけての女性からの反応が多かった。



本の取材をしたのは10年前のことだから、この母娘密着という家庭内人間関係問題は私にとってすでに古色食んだテーマではある。

しかしだからといってその母娘密着という人間関係問題が収束したというわけではない。

というよりここ数年マスメディアはむしろこの問題を取り上げることが多くなった。

ということは『渋谷』を出した当時はこの問題の潜伏期であり、現在ではそれがさらに一般状況化されつつあるとも考えられるわけである。



そのような経緯から当時は数多くの若い女性からのメールや、時には自分の心情を綴った手紙や、詩などが送られて来た。



中には会って話がしたいと言う人も少なからずいて、私としてもそのひとつひとつに対応するわけにもいかず、そのメールや手紙の内容に引っかかるものがある場合のみ会って話などを聞かせてもらったという経緯がある。



そういった反応が一段落し、静まった約1年の後、ぽつんと私のパソコンに1通のメールが投函された。

20代半ばの女性だった。

文面を読みつつやや身の引き締まるのを覚えた。

そこには事実関係はあからさまには書かれてはなかったが、文面全体の内容からその女性は小学生低学年のおりに実の父親から性行為を強要されていることが想像されたからである。







(一旦アップしましたが、この項は公開サイトには馴染まないと判断し、削除します。19pm)






私がなぜ過去のそのような出来事をここで持ち出したかと言うと、先日起きた佐世保での同級生殺害事件に関する様々なデータを読みながら、この不可解な事件は母娘密着ならぬ父娘密着という観点から俯瞰することによって、そこに一定の整合性が求められると考えたからである。



母娘密着に関しては『渋谷』および以降の状況からそれはすでにスタンダードとなっている家庭内問題だが、その他の家庭内相関関係には当然、母男子密着、父男子密着、そして父娘密着という形態が存在するわけだ。



そしてその関係に性が介在する場合もある。



受験生の男子の性を解放するために母と男子が姦通するということはたまに聞くことだが、この場合子供が被害者であったとしても、本来受動的性格の女性が加害者であるため強制臭が消え”犯罪”の側面が曖昧となる。



だが父と娘の場合は性の形態が異なるため加害的で犯罪的な側面が濃厚となる。



私は件の経験の後(精神科医にも会った)調べたのだが、この父娘の姦通というのは表沙汰にならないだけで、相当数が潜在化したままうやむやになっていることがわかった。



ましてや今日”父”の克己心や自律心が弱まっているこのご時世、こういった密閉された家庭内犯罪は増える傾向にあるのではないかと想像される。



だだし、今回の佐世保の事件の遠因に父娘の姦通を名指すわけではない。



ひとつの思考の方法として当然取り入れられるべきケーススタディであると私は考えるのである。

しかし昨今は人権と個人情報の縛りのきつい時代であり、マスメディアの中においてもアンダーグラウンド的要素のある週刊誌などもこのようなことを臭わす記事は見当たらない。



昨日もいま佐世保で取材中ですが今回の事件のことをどう思うかというある週刊誌記者から電話があったが、最近メディアの情報が画一化しているが、今回の件でもまるで情報統制されてでもいるかのように軒並み同じ論調の記事しか見当たらないとしゃべったところだった。



そのメディア情報の中に今回少女Mの犯罪は母親の死から百か日も経たないうちに父が若い女性と再婚した恨みが引き金になったとの通説がある。

そしてもうひとつの通説の中に、父の再婚ののち、父を金属バットで殴ったというのがある。

私は今回の事件の中で当然のことながら最も注視されている同級生殺害よりこの金属バット事件を重視する。



というのはこれは80年の金属バット両親撲殺事件と同じように、父親の就寝中に金属バットで殴打し、佐世保の場合は頭蓋骨陥没、複数の歯の骨折など、あきらかに殺害を目的とした行為だからである。

たまたま父親が体を鍛えたスポーツ人であり殴打に耐え、防御も出来たから死ななかっただけの話だ。



同級生殺害が大きくクローズアップされていることと、父親への殴打事件は父親が生きていることもあって小さな扱いになっているが、私はこの出来事の方に事件の核となるものを感じるのである。

つまりこの行為が母親への思いのみでなされたとはどうも考えられず、そこにはもっと深淵な父娘の愛憎関係が介在しているのではないかということである。





少女Mの将来の夢は検事になることだったという情報は各週刊誌に軒並み書かれているから、それは信憑性のある事実なのだろう。

だが少女Mの検事になりたい動機が奇態である

一般的には検事や弁護士になりたいという子供がいたとすると”世の中を良くしたい”などという思いが出てくるのが普通だが、少女Mの場合は”検事になって弁護士である父親と戦いたい”というのがその動機である。



暗く内向的にして攻撃的である。



少女Mは文武両道に優れていたらしいが、そのころ彼女が描いていた自画像のデッサン(中三)があり、私は今回の事件の中においてさまざまに出てきた情報の中でこの自画像のデッサン(週刊誌によってはぼかしを入れてるが)は父親金属バット殴打と同じように重要な情報だと考えている。


20140804.jpg




この自画像の中には父親は有名弁護士、母親は東大出、高台の一等地に豪邸を構え、ピアノやスキーを習い、父と一緒にスケートの練習に励み国体にも出るというような表の健全性からはまったく考えられない、暗く恨めしい表情が描かれている。



私は幼女殺害事件の宮崎勤の描いた絵を国選弁護人から見せられ、その絵の分析をしたことがあるが、絵というものは隠しようもなくその人の心情が生々しく出る心のカルテと言うべきものである。

少女Mはこの絵を描いた前後に、将来の抱負として検事になり父親と闘いたいと語っている。



そしてその時に使った彼女の人称は”ボク”である。

つまり彼女はこの時点で心の中で性転換を試みているわけだ。



そして高校に入ると彼女の身なりや佇まいはますます”ボク”となって行く。



これもまた個人情報や人権というバリアーがあることによってメディアは口を閉ざしているが、唯一ある週刊誌の情報の中でタクシーの運転手の目撃談として注目すべきものがあった。

それによると土曜日の午後の公園で加害者の少女Mと被害者の人少女がハグをしていたとある。



この一件もそれが事実であるとするなら「自画像」「検事」「バット殴打」とともに今回の事件の核となる重要なアイテムだろう。



後天的な性倒錯というものが父母と関わるなんらかの性的ダメージによって生じるということがあるとするなら、この4つの情報は線で繋がると言えるだろう。



「人を殺してみたかった」



その言葉を素直に受け入れているメデイアやその読者は、その因果性の希薄を持って発達障害や性格異常、つまりこの事件は非常に特殊な環境下の特殊な人格を持った人間の成したことであり、それは自分たちとは彼岸にあるとその身を安全圏に置こうとする。



だがそのベッドで何が起こったかは誰も見たわけではないのだ。



ひょっとするとそこには人間なら誰もが持ちうる愛憎劇が展開されていたかも知れないのである。



そして言っておくが克己心が”溶けている”父が私たちのまわりにごろごろしているということも合わせて記憶しておくべきだろう。

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