Shinya talk

     

 

2021/10/19(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.83「写真論@」

映画『MINAMATA』が公開され、その主演がジョニー・ディップということもあり話題になっている。

そこで写真家ユージーン・W・スミスの写真を藤原目線で考えてみる。



Podcast 藤原新也「新東京漂流」


     

 

2021/08/27(Fri)

アフガニスタンにおける各国のミッションが教えてくれていること。(Catalkより)


いま世界のニュースはアフガニスタン情勢で埋め尽くされている。

だが日本のメディアは朝から晩までコロナ一色。

内向き国家日本の有様がさらけ出されている。


そしてまたコロナ政策の失敗、ワクチン政策の失敗に続く政府の失策がまたこのアフガン問題においても浮かび上がっていると言える。



ご承知のように、今アフガンではアメリカ軍撤退期間である今月の末までアフガン在自国民やその使用人たちをタリバンの手から逃れさせ、いかに帰国保護させるかと言うミッションが世界各国で競われているわけだが、日本はこの場においてもコロナ政策やワクチン政策と同様に世界の国から遅れを取っている。








ちょうど隣国の韓国ではすでに昨日、韓国軍の派遣した軍用機によって無事に国民とその関係者をソウル空港に迎え入れている。

そして韓国と関係を持った亡命者であるアフガニスタン家族らに韓国籍を与え、言語教育、就職のあっせんまではやばやと取り決めている。


韓国のこの救出のミッションの成功の裏には計画性を持った根回しと、韓国在住の事務次官の自己犠牲の上に立った行動が功を奏したと言える。
つまり韓国では自国民とその関係者を極めて困難とされる市中からカブール空港までの誘導をアメリカ軍を通し、その関連のバス会社に懸命に働きかけ(おそらく莫大な金を積んだはずだ)た。

そして10台の大型バスを確保し、人々を一箇所に集め一気にカブール空港まで走り抜け、そこに待機する韓国軍軍用機に向かい入れ、半ば戦場と化しつつある空港を一気に飛び立ったわけだ。


そのミッションを成功させるために命がけで一人の若い事務次官がアフガニスタンのカブールに乗り込んだということを聞くに及んで、この日本に自らの命を懸け国民のために働こうとするような官僚がいるだろうかと言う思いにとらわれざるを得ない。







ひるがえってこの日本国においてアフガンから自国民を救出させるためのミッションがどのようにとられたかと言うと、そこにミッションなるものは無いに等しいと言えた。
いや全くないとは言えないだろう。
アフガニスタン日本大使館員12名は今月の17日に友好国の軍用機を借りてアラブ首長国連邦のドバイにはやばやと退避しているのだ。


そしてこの際今後危険にさらされるかもしれない大使館の従業員たちを置き去りにしている。

日頃交流のあった日本人達が大使館を去る時の従業員達の見捨てられた思いはいかばかりのものであっただろう。


さらに言えばこの時、そして今現在も、各種国際機関で働く日本人数十名やそれに関係するアフガニスタン人が行き場を失ったままの状態だ。

本来なら現地の事情に詳しい大使館員が最後まで居残り、救済に当たらならないはずだがはやばやと逃走。


救済ミッションのために自国からわざわざ現地に飛んだ韓国の事務次官とは大違いである。
この一連の出来事を目で追うにつけ、かつての日本敗戦の折、あの満州に自国民を置き去りにしていち早く逃走した日本軍人の姿を浮かべる。







そして今、日本から派遣された2機の自衛隊軍用機はなすべもなくカブール空港に待機中である。
日本の軍用機がカブール空港に降り立った時、誰もいなかったと言うゾッとするような話が伝わっているが、それもそのはずカブール在住の日本人に対しては自力で空港に行くように(自己責任?)との通達だけがあったとのこと。

群衆と化したの難民が押し寄せ、IS、タリバン入り乱れた修羅場の中、どうやって例えば非力な若い女性職員などが自力で自衛隊機に到達できのるのか。










アフガンにおけるこの菅内閣のミッションの不在は、もうひとつの戦争であるコロナ問題に対する菅内閣のミッションの不在となんと似通っていることか。


つまりありていに言えば戦時においては人々はやむなく自己責任論の中に生きなければならないということをアフガン事象は教えてくれているのであり、アフガンに置き去りにされた人々の姿を想像しながら、コロナ下に生きる自らの姿をそこに映し、日々自助の力を養う。

そのことに尽きる。

「死ぬな生きろ」である。






     

 

2021/07/27(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.71「2020年東京オリンピック開会式の夜に」(CATWALKより転載)

東京オリンピックがはじまった。

開会式の夜に八角堂でPodcastを収録した。



この東京オリンピックに関してはあたかも右派と左派の反目をそのまま引き継いでいるかのように世論が二分されていた(いる)わけだが、先の新聞インタビューでも述べたように、私個人はこれまで多くの国で文化破壊、環境破壊を行ってきたオリンピックそのものには反対であってもスポーツ選手たちの人生を賭した闘いそのものにはオリンピックならではの真剣さと神聖さがあり、それはそれで受け入れるべきだと話している。



今回のPodcastの私は冒頭で「開会式は及第点」という言葉を吐いているのもその意味合いがある。



例えば小道具丸見えのルームランナーを持ち出して来たり、自分のように映像に携わる者としては演出の粗探しをしょうと思えばいくらも目につく。



だが開会式競技場でパーフォーマンスをする若い出演者もまた闘うアスリートなのであり、カメラがアップした彼らの目の色や体の動きを見ていると、アスリート同様の一生に一度のパーフォーマンスをしているのだという真剣さがそこにある。

いくら演出にアラが見えようと、それは彼らの責任ではなく、そこに見える「人間」そのものを評価するという意味で私は及第点だと述べたのである。



例えば北野武は怒り狂ったかのように方々のメディアで開会式を貶しているが、彼は開会式そのものを遠目に見ているのであり、一人ひとりの人間に眼差しを向けていない。

いくら大きな会場であろうと、大勢であろうとそこには一人一人の人間がいるのだ。

というより、彼の怒りは東京オリンピックが決まった当初、総監督は北野武という名前が方々で持ち上がり、結果的に袖にされたことの怨念のようなものが彼の中にあるのではないか。

大人気ない。



組織体としてのオリンピックそのものと、己の人生をとしてIOCに貢いでいるかのようなアスリートたちとは別物であり、テレビコメンテーターがオリンピックを批判しながら、競技そのものには熱くなっていることを批判する向きがあるが、個々の競技に勤しむ若者とオリンピック という巨大組織は別物という観点に立つならそこには矛盾はない。

昨日は卓球混合ダブルスで日本ペアはついに中国の牙城を突き崩したが私は沖ノ島に参拝して以降、久しぶりに手を叩いた。











ところでこの前「山下清の日本紀行」というような番組をBSでやっていたが、その中で面白いことがあった。

山下清は温泉が好きで方々の温泉に入っているのだが、名前は忘れたが山梨の方の温泉地の情景を貼り絵で描いており、そこには大勢の裸の男女が立ったり座ったり、体を洗ったりしていた。

懐かしい情景だった。



私が高校のとき移り住んだ鉄輪においても当時は混浴が当たり前だった。

地区にはそれぞれ小さな温泉があり、高校生の私がその地区の風呂に初めて入った時、裸の女性高校生がいきなり入って来て度肝を抜かれた。

そのような日本の素晴らしい(笑)混浴文化ではあるが、番組では衝撃的なことが語られている。



当時を知る者の話として、この温泉も昔から混浴だったが、東京オリンピックを境に混浴が禁止されたというのである。

つまり混浴とは野蛮な文化であり、世界が注視する国際行事オリンピクの開催国としては恥ずかしいという意見が官僚の発言にあり、全国の自治体に御達しがあった可能性がある。



私個人も第一回東京オリンピック以降、鉄輪に帰っても混浴がなくなりなぜだろうと不思議な思いをしていたが、つまりこんなところまでオリンピックというものは文化破壊をしているわけである。




Podcast 藤原新也「新東京漂流」






     

 

2021/07/27(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.71「2020年東京オリンピック開会式の夜に」(

東京オリンピックがはじまった。

開会式の夜に八角堂でPodcastを収録した。



この東京オリンピックに関してはあたかも右派と左派の反目をそのまま引き継いでいるかのように世論が二分されていた(いる)わけだが、先の新聞インタビューでも述べたように、私個人はこれまで多くの国で文化破壊、環境破壊を行ってきたオリンピックそのものには反対であってもスポーツ選手たちの人生を賭した闘いそのものにはオリンピックならではの真剣さと神聖さがあり、それはそれで受け入れるべきだと話している。



今回のPodcastの私は冒頭で「開会式は及第点」という言葉を吐いているのもその意味合いがある。



例えば小道具丸見えのルームランナーを持ち出して来たり、自分のように映像に携わる者としては演出の粗探しをしょうと思えばいくらも目につく。



だが開会式競技場でパーフォーマンスをする若い出演者もまた闘うアスリートなのであり、カメラがアップした彼らの目の色や体の動きを見ていると、アスリート同様の一生に一度のパーフォーマンスをしているのだという真剣さがそこにある。

いくら演出にアラが見えようと、それは彼らの責任ではなく、そこに見える「人間」そのものを評価するという意味で私は及第点だと述べたのである。



例えば北野武は怒り狂ったかのように方々のメディアで開会式を貶しているが、彼は開会式そのものを遠目に見ているのであり、一人ひとりの人間に眼差しを向けていない。

いくら大きな会場であろうと、大勢であろうとそこには一人一人の人間がいるのだ。

というより、彼の怒りは東京オリンピックが決まった当初、総監督は北野武という名前が方々で持ち上がり、結果的に袖にされたことの怨念のようなものが彼の中にあるのではないか。

大人気ない。



組織体としてのオリンピックそのものと、己の人生をとしてIOCに貢いでいるかのようなアスリートたちとは別物であり、テレビコメンテーターがオリンピックを批判しながら、競技そのものには熱くなっていることを批判する向きがあるが、個々の競技に勤しむ若者とオリンピック という巨大組織は別物という観点に立つならそこには矛盾はない。

昨日は卓球混合ダブルスで日本ペアはついに中国の牙城を突き崩したが私は沖ノ島に参拝して以降、久しぶりに手を叩いた。











ところでこの前「山下清の日本紀行」というような番組をBSでやっていたが、その中で面白いことがあった。

山下清は温泉が好きで方々の温泉に入っているのだが、名前は忘れたが山梨の方の温泉地の情景を貼り絵で描いており、そこには大勢の裸の男女が立ったり座ったり、体を洗ったりしていた。

懐かしい情景だった。



私が高校のとき移り住んだ鉄輪においても当時は混浴が当たり前だった。

地区にはそれぞれ小さな温泉があり、高校生の私がその地区の風呂に初めて入った時、裸の女性高校生がいきなり入って来て度肝を抜かれた。

そのような日本の素晴らしい(笑)混浴文化ではあるが、番組では衝撃的なことが語られている。



当時を知る者の話として、この温泉も昔から混浴だったが、東京オリンピックを境に混浴が禁止されたというのである。

つまり混浴とは野蛮な文化であり、世界が注視する国際行事オリンピクの開催国としては恥ずかしいという意見が官僚の発言にあり、全国の自治体に御達しがあった可能性がある。



私個人も第一回東京オリンピック以降、鉄輪に帰っても混浴がなくなりなぜだろうと不思議な思いをしていたが、つまりこんなところまでオリンピックというものは文化破壊をしているわけである。




Podcast 藤原新也「新東京漂流」






     

 

2021/07/06(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.68「微粒子によるクライシス」

     

 

2021/06/29(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.67「公害としてのオリンピック」

     

 

2021/06/08(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.64


若かりし藤原新也の体験した沖縄の神話。



Podcast 藤原新也「新東京漂流」




     

 

2021/05/25(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.62 ジャーナリスト安田純平さんとのダイアローグその2」


今回の対話の着目点はシリアとウイグル人との関係だろう。

戦乱の場である、シリアに多くのウイグル人がやって来ているという話を聞いた時、私は同じイスラム教徒であるウイグル人がシリア政府との戦いに参戦する目的で来ているとの思いを持っていたわけだが、どうやらそれは思い込みで、彼(彼女)らの行動には別の側面があることを知っていささか驚いた。

確かに長らく続く中国(漢民族)によるウイグル弾圧とウイグル人がシリアにやって来ることとの間に関連はないとは言えないが中には物見遊山のようにシリアに来る人々もいるようだ。

また彼らがどのようなルートでウイグルからシリアに到達するかを聞き、仮にそれが物見遊山であってもその過酷なルートを国家法を冒してまで通りぬける彼らの日本人ではあり得ない生活感には驚きを禁じ得なかった。





Podcast 藤原新也「新東京漂流」


     

 

2021/04/27(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.58「門司港・シネマ・美空ひばり・石原裕次郎」

今回のPodcastは先週の映画「ノマドランド」の話の流れで私の少年期における映画体験の話をしている。港町門司港はこの日本の中でも早くから映画館が設営された土地であり、大正時代の無声映画に弁士が語る映画にはじまり(私はその時代には生まれていないが)私の少年時代には門司港とその周辺には実に16館もの映画館が林立していた。

映画隆盛時代の面目躍如である。

その中において門司港は映画のロケ地ともなり、門司港のメイン通りにあった私の旅館「藤乃屋」には多くの芸能人が泊まった。



今回はその話をしているが、その少年期から約30年後にまさに奇遇ともいえることが起きている。

私はそのことを自叙伝で書いているかどうか、忘れたが、今回のPodcastではその映画にまつわる奇遇の様子が語られている。




Podcast 藤原新也「新東京漂流」



     

 

2021/04/06(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.55「ニューヨークからの便り・その3」

今回のPodcastはアメリカにおけるヘイトクライムに触れている。

先日ニューヨークの街角に映る監視カメラにショッキングな映像が収録されたのを皆さんもご覧になっただろう。

アジア人の老夫人を黒人が何度も踏みつける映像である。



https://www.youtube.com/watch?v=WK8nynNjPeE



コロナウイルスが中国から広まって、アメリカ人に多大な被害を及ぼしているとの憶測から、ここに来てアメリカではアジア系人種に暴力を振るう事件が頻発している。



この画像に見る暴力に関連し、私は日本人が知らないアメリカにおけるもう一つの差別の構造について語っている。



Podcast 藤原新也「新東京漂流」




     

 

2021/03/31(Wed)

藤原新也 podcast 放送中

     

 

2021/03/16(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.52


コロナ問題が起きる前の一昨年の12月、私は南インドカレーを食いにマドライ(旧マドラス)に行きたいと思っていた。

だがこんな状況である。


今世界の旅は閉ざされている。

まさかこのような時代がやってこようとは誰が想像しただろう。



今回のpodcastはその旅の話だ。



というより、昨今若者の旅をしない若者の話である。


若者が旅をしなくなったのはなぜなのか。

そのことを自分なりに考えてみたことを話した。




Podcast 藤原新也「新東京漂流」



     

 

2021/03/09(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.51「スエーデンからの便り、その3」



今回のスエーデン便り、思わぬ展開で私自身も、なるほどと唸るところがあった。



つまり私が若かりし頃のインドに向かう1969年のヨーロッパの旅の中において長年「あれはなぜだろう?」と思ってその謎のまま忘れていたことが今のようによみがえり、はたと手を打ったわけだ。



それが何かは聴いてのお楽しみだな。



Podcast 藤原新也「新東京漂流」








     

 

2021/03/02(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.50「スエーデンからの便り、その2」

スエーデンは今回のコロナ禍に対し唯一放置政策をとった国であり、その結果は失敗に終わったが、今回のインタビューでは注目すべき政策がある。

それは失敗後も先進国で唯一「学級閉鎖」を取らなかったということである。

これは日本では義務となっている教育を当国では児童の権利とする真逆の発想によるものであり。その得意な政策に関してはほぼ成功した。

これは注目すべき話であり、聞き手私もそのことに最も着目している。




Podcast 藤原新也「新東京漂流」



     

 

2021/02/24(Wed)

人間のDNAの中に居残るウィルスパニック障害という視点。


今日アップしたPodcastはスエーデン在住の久山葉子さんの談話に私のコメントを付したものだが、久山さんは翻訳家でもあり、今ベストセラーとなっている「スマホ脳」も翻訳されている。

今回久山さんの話を受けて、ヒトのDNAの中に居残っている可能性のあるウィルスに対するパニック障害に言及している。

コロナに対するこういった視点はおそらくはじめてのことだと思われ、そういう意味で興味深いコメントとなっているのでお聴き願いたい。



藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.49「スエーデンからの便りその1」



Podcast 藤原新也「新東京漂流」




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