Shinya talk

     

 

2020/01/29(Wed)

入り乱れるコロナウイルス情報の中で、私たちが依拠すべきは、ブッダの「毒矢のたとえ」ということになる。(CATWALKより転載)




地球上にあるもので食わないものは四つ足では机や椅子、2本足で食わないものは両親、と中国人を揶揄するジョークは清朝の時代からあるが、ゲテモノぐいの宝庫である中国は上海でもっとも眉をひそめたものは小ネズミの踊り食いだった。

日本にもシラスの踊り食いなどがあるが、中国にもこの手の踊り食いの店があり、今はあるかどうかは知らないが、70年代には驚くべき店があった。

円卓を囲んだ家族の前に針か何かで神経を鈍らせて走って逃げないようにしたピクピク動く尻尾も毛もある小ネズミが大皿の上に盛られて出される。

それを箸で取り、隣の小皿のマスタードオイルのようなものにひたひたと浸し、そのまま口に放り込み、もぐもぐと食べるのである。

隣に座る幼児はネズミの骨を口で砕くことが出来ないから、深皿の中を泳いでいるオタマジャクシをお母さんがスプーンで掬い口に入れてやる。






今回武漢の市場で発生したコロナウイルスのことで思い出した昔の中国の一コマである。

今回のコロナウイルスは動物由来と言われ、コウモリなどがその発生元という情報もあるが、その情報に合わせたようにコウモリの羽を持ち上げて食す少女の写真がネットに出回ったが、これはどうもヤラセくさい。

ただし仮にそう言った食材として武漢の市場に売られていた動物がコロナウイルスの発生源だとすれば、ではそのウイルスはなぜその個体に発生したのかということが謎である。

火のないところに煙は立たないようにその火(コロナウイルス)を普通の個体が発生させたとしたら奇妙なことである。

ということでこのコロナウイルス、生物兵器の事故ではないかとの憶測が流れ、例によって一部のアンダーグラウンドネット情報が騒がしい。

そんな中、26日このウイルスは武漢の生物兵器研究機関から漏れたのではないかとの記事がアメリカのワシントンタイムスに掲載されたがこのワシントンタイムスというのはワシントンポストのような一流新聞とは異なり、日本で言えば夕刊フジとか日刊ゲンダイのようなゴシップ好みのタブロイド紙だからこれも一概には信用は出来ない。

記事を寄稿した人物が中国の生物兵器を研究している元イスラエル軍事教官と聞いて大きな括りからすると中国とは敵対関係になりうるイスラエルのアメリカロビーのフェイク情報とも受け取れる。

だがこの生物兵器研究機関発生説を全否定する証拠もない。






思うに37各国で774人が死亡した17年前の2003年のサーズも発生源は同じく中国でありこの時も生物兵器事故説が流れ、それは都市伝説として片づけられた。

しかしその後サーズウイルスは北京の生物兵器研究機関から漏れたものと、あの権威あるイギリスのネーチャー誌に論文が載ったがサーズ騒ぎから時を経ていたために話題にならなかった。

まさかネーチャー誌までアメリカ陣営に組みしているとは思えないから、そういった過去の例を勘案するならこのワシントンタイムスに載った記事をただのフェイク情報として一笑に伏すことも出来ない。






いわゆるこういったエマージェンシー時には様々なフェイク情報や雑音が入り乱れるわけだが、その発生源が何処の何かということは重要な問題ではなく、こういった状況の中において私たちがなすべきは自己防衛以外にない。

ブッダのたとえの中に「毒矢のたとえ」というのがあるのをご存知だろう。

ある時、頭の良い青年が毒矢(ウイルス)に射られた。

その射られた青年は駆けつけた医者に「この矢を射た者は誰か? 弓はどのようなものか? 弦(つる)は何で出来ているか? 矢羽はどんな羽で出来ているか?」と真実と事実を知ろうとする。

がその真実を知る前にその青年は死ぬはずだ。

ここで教えているのは、やるべきことは事実や真実を知る前にその毒矢を抜いてまず手当をする、という即時行動ということである。






その毒矢のたとえに習うなら、私たちに今できる最低限のことは自からがウイルスに汚染されず、また汚染源となって他に被害をもたらさないことだろう。

巷間言われているように外出時にはマスク(できれば3Mクラスか活性炭フィルター入り)を常用し、帰宅時にはうがい、手洗い、は基本だろう。

つまり露出部分の洗浄ということになるわけだが、ひとつだけメディアで言われないのは顔面も露出しているということである。

セシウムなどはウイルスと似て目に見えないから私は放射能汚染地区を取材してホテルに帰った後はうがい、手洗いは当然のことだが、洗顔と洗眼もしていた。その洗顔と洗眼はゴシゴシ擦るのではなく、顔を下に向け、濃度の低い塩水をヒタヒタと顔面と眼にかけ、付着物を洗い落とすということである。

もうひとつ露出している部分は鼻腔であり、これに関しては鼻うがいをする必要がある。

私はこの鼻うがいはモスク礼拝で五穴洗浄をするイスラム圏で習ったが、慣れれば簡単に誰でもできる。

体液と同じくらい濃度の低い塩水をコップ(手のひらでもよい)に満たし、コップの縁を鼻腔につけ、わずかに顔を上むきにそらすようにして鼻から空気を吸うようにすると、ブクブクと塩水がおのずと鼻腔の奥に流れる。

この際注意すべきは、強く吸わないことである。

鼻で飲む、という要領だ。

そうすると鼻腔に流れ込んだ塩水は口とつながる中咽頭あたりからなだれ落ちて来るから、それを飲まず口から吐く。

コップ7部目くらい塩水を使ったことろで、残りの塩水でうがいをする。

私はこの鼻うがいは習慣になっており、といっても毎日やるわけはなく外出から帰ってきて何となく鼻がムズムズするというような時には必ずやる。

非常にすっきりとする。

ただし鼻腔には粘膜があり、この粘膜も生理的には大切なものだから、あまり洗い過ぎないことが大事だ。毎日やるのも良くない。

ウイルスの防御で個人でできるのはこれくらいだろうが、これはあくまでエマージェンシー時の時のことであり、あまり神経質になるのもよろしくない。

なお鼻うがいに関しては練習することである。

練習するとすごく上手になるが、こういったものがプロ並みに上手になったと言ってあまり格好の良いものではないから自慢げに人前でやらぬように。



     

 

2019/12/26(Thu)

みなさんよいお年を。(CatWalkより転載)

せっかくクリスマスソング「スマイル」で2019年のさまざまな汚濁を洗い流したところだが、この年末はやはり最後の汚濁の締めくくりと言うべきものが再発生しているようだ。


例の秋元司自民党衆議院議員の収賄容疑の逮捕のことである。
この案件は一見カジノ誘致に絡む単純な収賄事件のように見える。
だがこの安倍政権の極めて高度な政治手法と言うべきか、と言うよりこの案件は安倍政権お得意の保身のための極めて込み入ったひとつの政治詐術のように船長の目には映るのだ。


というのは11月末あたりから小泉進次郎にまつわる大きなスキャンダルが出るぞ出るぞという噂がメディアの水面下でささやかれていたのが船長の耳に入っていたが、そのスキャンダルが今週の週刊文春のトップ記事、つまり政党交付金による政治資金を知り合いの訳もわからぬ幽霊会社に4千300万円もの発注をかけ、その大半をキックバックさせたと言う税金収奪スキャンダル、と言うより犯罪と言うべき案件だったわけだ。


だがこの週刊文春の記事が出る直前に秋元議員がまさに超特急と言えるべき速さで東京地検によって逮捕された。
船長にはこの両者の関係がタコが自分の足を敵に差し出して自分の身を守ると言うタコサバイバルと言うふうに見えてしまうのである。


つまり秋元議員の逮捕は確実に小泉進次郎の事件を打ち消すべきスピンコントロールとして機能しているわけであり、週刊文春の記事が出た直後の今日のテレビのワイドショーは秋元議員逮捕一色である。


ではなぜ小泉進次郎のスピンコントロール役として人身御供のごとく自分の党の議員の首を差し出したのか。


そこには桜を見る会のみならず自民党のさまざまな不祥事に対して地検が一切動かないと言う世間の批判によって地検は大きなストレスを抱え込んでいるという背景がある。
つまり地検は自民党の本丸へさえ手を突っ込んだのだと言う、この実績を与え、ガス抜きをすることが必要と判断されても決しておかしくはない時期に来ているのだ。


船長の憶測が当たっているとするならこの人身御供となった秋元議員は小物であり、彼の逮捕は自民党本体に大きなダメージを負わせるものではない。
つまり差し当たって生きるには必要ではないタコの足なのである。


だがその能力はあるか無いかは別として次期総裁候補として名前の上がっている小泉進次郎の政治生命を奪うやもしれないスキャンダルは、自民本体に大きなダメージを与えてしまうわけだ。


この自民党と言う政党は懐が深いと言うべきか、自身の身を切り落とすタコのサバイバルもどきの行動さえ手法のひとつとして消化する巧みを弄する。


そんなことを考えていると今の今、秋元議員のカジノ疑獄を仕掛けたのは安倍側近という記事がネットに出た。


船長、ちょっとニヤリとしたがどうもほろ苦いニヤリではある。


     

 

2019/12/03(Tue)

「事件」としての桜を見る会(CATWALKより転載)

私の知り合いに事件事故などの死体を処理するTという葬儀屋が居る。

警察などが実況検分を行った後に死体を処理するそういう職業があるということを人はあまり知らない。


彼は15年ほど前、房総において物置となる借家を世話してくれた不動産屋だったが、倒産し、家族を養うためにそういった仕事についた。

その彼が面白いことを言った。


腐臭を発する数々の死体を処理する過程で最初は耐えられなかった腐臭に徐々に慣れ、死体を見ただけで嗅覚が麻痺したようになり、強い腐臭にさいなまれる苦痛がなくなったというのである。


腐臭慣れ、ということであろうが人間の脳というのはそういう防御にも働くのかと驚いたものだ。







今日その話をなぜ思い出したかというと、情報操作によって国民を騙し続けたことにより戦後在任最長の総理大臣となった安倍首相がここのところに来てさらに腐臭を発しているからである。


ご承知のようにこの「桜を見る会」に首相枠で招待されたジャパンライフ(山口元会長)は主に老人を巻き込んだマルチ商法詐欺によって幾度も消費者庁から行政指導を受けている。

札付きのワルだが、官邸は足がつかぬよう招待名簿は速攻破棄した。

だが悪いことに山口は「桜を見る会」に出席せず(招待状を渡すと手元になくなるからだ)その招待状を詐欺行為の勧誘宣伝として使ったために、戦後最大とも言えるマルチ商法のジャパンライフと安倍首相との関係が明らかになった。








思うに今「桜を見る会」の招待名簿が速攻シュレッダーにかけられたことを野党が問題視し、追求しているが、船長個人の観測としてはこの速攻シュレッダーはジャパンライフ隠しではなかったかと思われる。


この案件はそれほど表に出てはいけない大物だった(おそらく名簿が復元されてもジャパンライフ以上の大物は出てこないのではないか)。


要はなぜ安倍首相がジャパンライフの山口を招待名簿のトップに上げているかということだが、テレビ新聞では証拠を持たないが故に(あるいは忖度)このことは伏されているが、2千億もの利益を上げ(消費者庁からの天下りが功を奏して)逃げ切った山口はおそらく各方面に巨額の献金を施しているはずである。


ということは老人から金を巻き上げているオレオレ詐欺など足元にも及ばない莫大な金を老人らから騙し、取った金の一部を一国の国を運勢する政治家が受け取っているとすれば、これはれっきとした「事件」なのである。


安倍首相は何が何でもこの案件をうやむやにしなければならない。

要するにまたぞろ森友・加計に続く、というよりそれをはるかに凌駕する腐臭を安倍首相は発しているのだが、ここで前段のエピソードに戻ることになる。







この長期政権の中、安倍首相は折々に腐臭を撒き続けてきた。

だがそれがまさに政策であるかのごとく、国民に件の死体処理業Tと同じように”腐臭慣れ”という嗅覚麻痺を起こさせていると言える。


さらに由々しいことにこの事件発覚の最中安倍首相は各マスコミ官邸キャップと会食し懐柔策を弄し、毎日以外のマスコミはノコノコと会食に出かける始末。


さらにはことほど重要な事件であるにも関わらず、自民の息のかかったコメンテーターや識者はこれは一国を左右する問題ではなく他にもっとやるべきことがあると火消し役に回っている。
その代表格が元NHKキャスターの木村太郎だろう。







私は生え抜きの彼がアメリカ支局の局長を経てNHKのニュースキャスターをしていた頃はその冷静で硬派な印象に好感を抱いていた。

そして彼とは過去に一度会っているが、その折の彼の言動には興醒めした覚えがある。


私が「アメリカ」を上梓した折のことである。
彼がホストをつとめる民放のラジオ番組から出演のオファーがあり、アメリカ滞在の長い彼とアメリカの話ができるのは面白いと二つ返事で出演を快諾した。


だが収録の当日のスタジオでの彼の第一声には???となった。


「あー、とうとういらしてくれたんですね。なかなかこういうところに出てくれない方でスタッフも度重なる交渉の末、やっと出演の快諾をいただきました」


私がその時感じたのは彼がオーバーな表現で自分の番組を盛り上げる、いかにも民放的なスタンスになったのだなということだった。


そんな彼は最近歳を取るとともに自制心を失い、オーバーアクションが過剰になりネットニュースでは木村が野党が「桜を見る会」に拘泥することに”激怒”とある。


批判批評ではなく、この”激怒”はジャーナリストの持つべきスタンスではない。
いや怒りの感情を持つことは悪いことではないが、その感情に溺れて表に垂れ流すことは慎むべきものである。


木村はジャーナリストでありながらどうも事件としての桜を見る会を見失っているのか、何らかの忖度があるのかは釈然としないが、この”激怒”というスタンスには独特のエリート(特権)意識が老いによって歯止めがかからなくなった老残の一風景という風に私には見える。


老境に入る者は反面教師とすべきだろう。








     

 

2019/11/17(Sun)

桜を見る会、窮地!!緊急レスキュー隊「官邸+NHK+警察庁」三位一体出動、トップ女優沢尻エリカ超緊急逮捕。これでニュース、ワイドショーは向こう5日間”桜”散り、エリカネタに塗り替えられる。(CatWalkより転載)


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今日は日曜だが共有すべき事柄があるので簡単に記しておきたい。

これは10年くらい前の話だが、警視庁には内閣調査室と連動して芸能人逮捕予備のリストが用意されているとあるマスコミ関係の人物が語っていた。

つまりそれは芸能人の麻薬事案のストックにほかならないわけだが、そのことを示すように2016年、甘利明の現金授受問題が炎上しつつあるその最中、元プロ野球選手の清原が緊急逮捕され、メディアは大騒ぎをして、甘利問題とTPP問題はその喧騒の中でかき消された。

これは明らかに官邸主導のスピンコントロールだと感じたのだが、こう言った事案は証拠をあげることが困難である。

近くでは2019年2月に沖縄県民投票で圧倒的多数の辺野古新基地反対の情報が燃え上がろうとする中、ピエール瀧が麻薬所持容疑で緊急逮捕されている。

さらに大物感のあるチャゲ&飛鳥のASKAの覚せい剤使用逮捕は安倍政権が強行採決した年金カット法や高齢者の医療費負担増加、日露首脳会談の失敗などの報道と見事に連動している。

また安倍首相の意向を忖度した法務省が、技能実習生の失踪調査で、改ざんした調査結果を国会に提出していた矢先にネイムバリューが芸能人並みに高い日産自動車のカルロス・ゴーン会長が金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕されている。

今回「桜を見る会」で安倍首相が窮地に追い込まれつつあるそのさなか、あまりにもグッドタイミングでとつぜん女優の沢尻エリカが合成麻薬MDMAの緊急逮捕は警視庁は持ち駒の序列の中で大物のカードを切って来たとの感は否めない。

ご丁寧にも逮捕当日の18時、NHK7時のニュースに間に合うように警視庁は緊急会見をしているが、「桜を見る会」炎上打ち消し総動員の感がある。

そして案の定、警視庁の緊急会見にお墨付きを得たかのようにNHKの7時のニュースでは沢尻エリカの緊急逮捕をトップニュースとして報道している。そして「桜を見る会」報道を一切ないばかりか、半年前から準備して来た「安倍政権、長期政権」安倍礼賛報道をする始末である。

今は警視庁関係の人間がいるかどうかは(おそらくいるだろう)不明だが清原逮捕時には警視庁出身の杉田官房副長官が在籍していたことを見ると警視庁OBが官邸とつながっていることは確かだろう。

この芸能人の人気にあやかった政治利用は「桜を見る会」でも毎年行われていることだが、一方スピンコントロールのための逮捕予備リストとしてまたこの芸能人の人気が有効利用されていることはほぼ確実であり、ついに今日に至っては「官邸+NHK+警察庁」と三位一体となった情報操作が行われつつあるという北朝鮮まがいのことが起こりつつあるわけだ。

つまり今回NHKのニュースで特集を組んだ「安倍政権、長期政権」はひとつには今回のような長年にわたる情報操作によって愚民を騙し続けたひとつの成果ということだろう。


     

 

2019/10/18(Fri)

どいつもこいつも、どいつもこいつも this is ニッポン。(CatWalkより転載)

過去のトークを見てもわかるように都知事選に立候補した小池百合子ブームが起きた最中も私はこの女性が食わせ者であることを述べ、その後の築地移転問題の手のひら返しを見ると彼女は築地問題を選挙に利用していたに過ぎず、彼女が食わせ者であるという観測は当たっていたわけだ。


そんな小池でさえ今回の青天の霹靂と言えるマラソンと競歩の開催地の変更に関しては彼女の怒りには同調せざるを得ない。


オリンピック組織委員会会長の森喜朗は早くから安倍首相と会って今回の開催地の変更を画策しており、安倍は北海道出身の橋本聖子五輪担当相に花を持たせるという形でそれを許諾する、というまさにオリンピックの私物化極の極みがこの開催地変更に象徴されている。


ニュースをただ薄らぼんやりと見ている国民はこの突然の開催地の変更はバッハ会長の強権の強引な発案という風に思いがちだが、日本のオリンピック組織委員会がドーハでの灼熱問題を理由付けに突然進言し、慌てて北海道の何たるやも知らないバッハがそれを容認したに過ぎない。


オリンピック東京開催が決まった折の森喜朗と小池百合子の陰鬱なバトルは記憶に新しいが、その後その怨念は立ち消え、お互い仲良くやっているのかと思いきや、森は小池の背中からバッサリと後ろから怪刀を振り下ろした格好の今回の出来事を見ると、国民不在の陰湿なイジメ行為が白昼堂々お国のトップで行われているという見たくもない風景が目の前に広がる。


今回の一件を見るにイジメ問題は子供の世界にとどまらず、教師の世界にもはびこっていたという神戸の教師によるイジメ問題に行き当たり、この国は下は小学校、上は国会議員までイジメのはびこる陰湿国家と言わざるをえない。

     

 

2019/09/13(Fri)

テレビ情報の陰に隠れた東電問題(CATWALKより転載)

今日は所用があり、一昨日の房総現場の情報を得て、昨日スタッフが物資を買い込み、今日の朝、車で現地に赴いた。

今回の房総半島を中心とするインフラ崩壊は徐々にボディブローのように効いており、こう行った時期に組閣ではしゃいでいる場合ではない。



内閣組閣直後、環境大臣になった小泉進次郎は喜び勇んで凱旋訪問のように福島に行ったが、今は福島に行っている場合ではなく、房総だろう。

彼が福島に入れ込んでいるということはわかるが若いにしては即応性、柔軟性に欠ける。











また今回も311時と同じ東電の事故だが、311時において嘘をつきまくった東電はこの房総でも嘘をついており、その嘘に誰も気づいていない。



つまり電力の復旧が遅れているのは倒木によって道路などが遮断されており作業に支障をきたしているというアレである。



現場を見たところ倒木はあるにはあるがそれはもともと体力の衰えた老木であり、山間部であっても道路を遮断するほどの巨木がいたるところに倒れているかのような東電のコメントには無理があり、映像にもそのようなものは出ていない。



というより現場で道路を遮断している本当の障害物は東電の建てた電信柱なのである。

電信柱なら至るところに倒れており、こう行ったインフラは道路ぎわにあるから倒れると完全に道路をふさぐ。

通りによってはまるで将棋倒しのように倒れており、一つを処分してもさらにその先にあるという状況だ。



船長も房総に住み、倒木で道路をふさがれたことがあるが、仮に長さ10メートルでひと抱えくらいの倒木であってもプロが使う50cc以上のチエンソーがあれば人が抱えることのできる50センチ幅で切り刻み、ものの15分で処理できるし自分でもやったことがある。



つまり倒木によって作業が遅れているのではなく、おそらくいたるところで倒壊した電柱によって作業が遅れているということではないか。



この電柱処理は倒木の100倍も厄介だ。

中に数十本もの鉄筋が入っており、切断が容易ではない。

切断ができない以上、クレーン車で移動させるしかないのだが、場所によってはその作業もできない。



日本は電線が埋設されていない唯一の先進国であり、この電柱の倒壊が復興の妨げになっているということは311時のみならずこれまであらゆる災害現場で経験しているわけだが、今回もまた同じことが起きており、それを東電は倒木のせいにしているわけである。



特に東電では都会部や町では電柱は広告塔の役割を担わせており、その別会社を建てるほど広告収入は莫大なものであり、この厄介な障害物で東電は儲けている。

電柱の倒壊によって電力の復旧作業が遅れているとは口が裂けても言えないわけだ。



こう行った災害時には時に別の視点で物事を観測するなら思わぬことが浮かび上がってくるものだ。

テレビだけの情報を鵜呑みにしてはいけない。



     

 

2019/08/14(Wed)

無責任な憶測の飛び交う「愛知トリエンナーレ」における実情。(Catwalkより転載)

愛知トリエンナーレの問題は表現者としての私にとっても簡単にスルーできない問題であり、お盆休みではあるが、近々に収集した情報を元にまず外部に出ていない内部事情を掲載する。





今回の愛知トリエンナーレ「表現の不自由」展の開催中止に関し、芸術監督を務めた津田大介に対する非難は大きくわけて二つに仕分けができるだろう。



ひとつは従軍慰安婦像の展示に対する非難と攻撃であり、今日のこじれた日韓関係と長引く従軍慰安婦問題と徴用工の問題を考えれば非難攻撃は当初から予想されることであり、当然主催者側も津田大介もそれは織り込み済みでの開催と私は考える。



その意味でこの件に関しては展覧会の中止に追い込まれる問題ではない。



問題は今回の展覧会開催中止の局面にあって、中止すべきでないとの立場を取る有識者の発言が中止を決めた芸術監督である津田大介に対して欠席裁判の様相を呈していることである。

特に私にとって気分が悪いのは右派が左派的なものを攻撃対象とすることは普通のことだが今回は左派的なものが左派的なものを非難攻撃するという左派政治集団によくありがちなタコが自分の足を食っているような状況を呈していることだ。



その代表的な発言のひとつが8月10日の朝日新聞の宮台真司のインタビュー記事だろう。

彼は芸術監督を務めた津田大介およびトリエンナーレ実行委員会を“未熟”すぎると以下のように一刀両断している。



「今回の中止は脅迫による困難が理由で言語道断です。毅然とした態度を貫かないと脅かしたもの勝ちとなる。フランスのシャルリー・エブド紙襲撃事件では、マスコミも政治家も識者も「テロに屈するな」と叫んだはずです。警察と連携、別会場でボデイチェックなど対処法を編み出すべきなのに、それをせず三日間で中止したトリエンナーレ実行委員会や津田大介芸術監督は未熟すぎます」



正論である。



問題はこの種のまっとうな正論がフランス市民革命によって自由の権利を勝ち取ったフランスではなく、未だにアメリカの植民地国家として己の主体性を失っているこの日本において通用するかということである。



というより宮台真司は他者を未熟と名指しする前に主催者側及び津田大介が今回のテロ脅しに関してどのように対処したかという事実関係を把握した上で発言をすべきであり、そうでなければ欠席裁判の様相を呈してしまい、これは昨今ネットにありがちな相手側の情報を収集することなく一方的に他者を攻撃する様に似て怖いことだ。







私の調べによると実行委員会及び芸術監督である津田大介はテロ予告に関し、手をこまねいていたわけではなく、むしろ敏速に動いている。



つまりガソリンテロ予告FAXが届いたその日に警察と接触し捜査依頼をしているのである。



だがここで信じがたいことが起こる。



所轄の警官が来るには来たが、FAXのヘッダーの部分の発信者番号が5桁しかなかったため「これじゃ発信元わからないから犯人わからないね」というぞんざいな対応を示し、そのまま帰ってしまったのである。

所轄はそのまま知事には「FAXの発信元が匿名化されていてわからない」という報告をしたようだ。



所轄の「発信元がわからない」から犯人は特定できないというコメントを聞いた津田はこのFAXは海外のワンタイムFAX送信サービスでも使ったのかと思ったらしい。


だが、実際にFAXを見たところ、海外のワンタイムFAXではなく、特定ができるのではないかと思い、この種の情報特定が得意な知り合いの記者と、外部の専門家に解析させた。

その結果件のFAXはコンビニのFAX送信サービスを利用したものであるということが判明し、さらに5桁の番号が店番号だということも判明。

そして一宮市にあるファミリーマートから送信されたものだということを突き止める。



私はそのこみ入った経緯を知って大変驚いた。



これって警察がやるべき仕事だろ。



つまり津田は警察がやるべきことを目出度く“代行”していたというわけだ。



コンビニの所在までわかれば監視映像も保存されているわけであり、その後津田らは犯人逮捕に向け、解析した情報を事務局経由で警察に上げた。

そうすると、それまで「発信元がわからない」といって被害届を受け取らなかった警察は一転、事務局に「被害届を出してくれ」という要請がとつぜん来た。

そして被害届けを出してのち当然のことながら速やかに犯人が逮捕されることとなる。



これが犯人逮捕に至る正確な経緯である。



つまり津田が警察まがいの捜査をして、店舗まで特定して警察まで上げなければ警察は動かなかったということだ。

この事実を聞き,一体この国は法治国家なのかとの疑いを禁じ得ない。





これは模倣犯だと思われるがコンビニ経由でのテロ予告以降、断続的に県内各所へのガソリンテロ予告メールが送られて来ているらしい。

こちらは手の込んだやり方をしていて、ある宗教団体のメールフォームを悪用して(メールフォームを送ると、その写しが自分の入力したメールアドレスまで戻ってくる)、脅迫を続けており、こちらについても対応してくれと警察に願いしているが、いまだ被害届すら出させてもらえていない状況らしい。

知事に話してようやく被害届を出させてもらう状況に至っているらしいが、こちらについても警察は「発信元わからないね」と件のコンビニFAX脅迫時と同じ対応とのことである。





ただ所轄によっては正常な動きをしているようだ。

件のコンビニFAX捜査は刑事課の担当で、トリエンナーレ関連のイベントの現場警備は警備課が担当しており、警備課は協力的で、津田が出演するイベントなどでは、必ず私服警官を出してくれるようになったという。



津田は覚悟が決まっており、自身は刺されてもいいと思っているらしいが、お客さんの安全を預かる立場でもあるので、警備の配備には安堵しているとのことである。



先のトークで宮台真司の言う「テロ予告があれば警察と連係」というもの言いを”お花畑”と書いたのは、それは忠告するまでもなく当たり前のことであり、津田らはテロ予告以前の企画の全体像が見えた2カ月前からずっと警察とは「連携」している。



だが実際にテロ予告が来てからの警察の対応が違ったということだ。

FAXという物的証拠がありながら、その発信元を特定する努力を怠った上に被害届すら出させてもらえない異様な状況が展開されたのだ。

つまりこの状況こそ問題視するべきなのである。





つまり津田は宮台の言うように未熟なのではなく、ネットリテラシーに長けた能力を生かし、警察のできないことまでやっているのである。

逆に言えば宮台が津田の立場に立った時、津田がやったようなことが出来たかどうか、それは興味深いことである。


だが今回の最大の問題はなぜ警察の動きがかくも鈍いのか、ということに尽きる。

それが単なる地方警察の能力不足なら、まあそんなものかと思うわけだが、今回の犯人「放置」が、官邸あたりから何らかのサボタージュ指示が出ているとすればこれは言論の自由問題としてきわめて深刻な事態ということになる。


余談だが個人的には津田はまだトリエンナーレ再開に向け諦めていないとの感触を抱いている。

だがそれには警察の協力は不可欠であり、前後の経緯からするなら難しい局面に立たされていると言えるだろう。




なお、この論考はあくまで事実に即した展覧会の運営上の内部事情を記述したのであり、展覧会そのものの評価をしたものではないことをお断りしておく。



     

 

2019/08/12(Mon)

法治国家でない限り、表現の自由は成り立たないという基本が守られぬ三流国家としての日本。(CatWalkより転載)

Y.T
タイトル:小泉劇場

原爆の日の間隙をぬっての小泉劇場。首相官邸を使った小泉劇場に、なんともやりきれない思いなのは私だけでしょうか?
幸い?東京新聞は、翌日か翌翌日の紙上で劇場報道を批判していましたが。
ワイドショーの時間を狙い、将来の首相候補をよいしょする安倍政権。
ここまできたか!という感じです。
でも、批判の声は聞こえてこない世の中。
いやはやです。



Catwalkは今日から18日(日)までお盆休みに入る。


休みにあたって先日催されたトーク&ライブ「旅の音色」を表紙展開としたので休み中に楽しんでいただきたい。


また近々の話題で2点ほど船長の見解を簡単に述べておきたい。


ひとつは投稿にもある官邸を使った小泉進次郎の婚約会見だが、私は当日Catwalk会員の遺骨を船に乗せ、海を回遊していたため、この話題はあとから知ったのだが、官邸とは税金で運営している公共施設であり、また安倍首相の所有物でもなく、そのようなところでテレビを呼んで婚約の記者会見をするというのは公共施設の私物化もはなはだしい。


安倍首相の官邸、そして国会議員ということで何でも自由になるという昨今の自民党の奢りがこのような場面にも出ており、こういった勘違いをロートル政治家ならまだしも若手の議員が平気で行っているのは感覚の狂いを感じる。


進次郎は親の七光りで次期首相などと持て囃されているが、演説の内容などを聞くと大した思想があるわけでもなく小泉純一郎同様小頭の働く小細工師にすぎない。


これは俳優になっている兄の小泉孝太郎も同様で、彼が純一郎の子供でなければ写真家の私から見ればルックスもまったく魅力なく、演技も実に下手くそで、本来ならうだつの上がらない大部屋のただの売れない芋役者に過ぎなかったはずであり、こういったものが世間に持て囃されるというのはいかにも日本的である。



愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」にひとこと。


私はこれまで数々の展覧会の審査などを行っているが、表現の自由とは何でも許されるということではなく、私自身も応募作品を却下したことがある。ある大きな展覧会の審査委員長をやっていたおり、コマーシャル系の写真家の応募で次のようなものがあった。


組み写真の@は業務用のミキサーの中で100匹の小さな金魚が泳いでいる。


Aではミキサーの羽がまわりはじめ、金魚がズタズタに切り裂かれ、黒い目玉なども攪拌されている。


Bではミキサーの中で完全にジュース化されたピンク糸の液体が完成されている。


作者は人間はこのように生きものを殺して生きているということを訴えたかったのだろうが、表現のために100匹の金魚を殺すというのは表現の自由の勘違いも甚だしい。


今回の「表現の不自由展」に関しては監修を行った津田大介に避難の矛先が向けられている(この件に関し私は津田大介にひとつの質問メールを送っているが、センシティブな状況でもありいまだ返事はない)。


私が一点聞きたかったのは慰安婦像の展示に対し、ガソリン携行缶でのテロ予告がFAXであったとき、県警は動いたかということである。


のちの調べによると当初どうも県警は動いた形跡がない。


ご承知のように北海道において安倍首相の選挙演説にヤジを飛ばした一般人を道警が連行するというような官警癒着の構造が見られる昨今、こういった日本を非難するような展示に対しての脅しを県警が見て見ぬふりをするということは考えられることであり、実際に県警が動いてテロ予告者を確保したのは県警に対する非難がおきはじめたことによるものであり(コンビニからFAXをするような間抜けな犯人を確保するのは簡単なことなのだが)おそらくテロ予告を放置していたというのが実情だろう。


朝日新聞では宮台真司が「テロ予告があれば警察と連係」などとお花畑的解決策を書いているが、今回の展示では県警は敏速に動かなかったという経緯が濃厚であり、であれば法治国家としての体を成していないということになる。


かりにそうであれば主催者側および監修者は無法国家で展を開催せざるを得ないということであり、開催の中止はやむを得ないというのが私の見解である。


表現の自由を盾に当事者を非難中傷することは簡単だが、ことこの日本に関してはさきのフランスのシャルリー・エブド襲撃事件のようにメディア警察一体となった表現の自由に対する毅然とした態度のようなものは望むべくもなく、今回の一件はこの日本が三流国家であることをはからずも証明する結果となったと言える。






     

 

2019/06/14(Fri)

川崎通り魔殺人事件に関する雑感。(CatWalkより転載)

3月4日の誕生日を過ぎてひとつ試みていることがある。
昨今の社会では人々は情報をスマホ、テレビ、新聞、雑誌などのメディアによって取得する率が大きくなっている。
電車の中で時にはほとんどの乗客が下を向いてスマホを操作していたり画面に見入っていたりする光景がこのことをよく表している。車窓では彼らが何年も通っている日常風景が流れているわけだが、ひょっとすると人によってはそれは見知らぬ風景であるのかも知れない。


こういったメディアによる情報の取得率が拡大するにつけ、日常や現実にブラインドが降りてしまうという本来人間の身体が求めている現実との風通しが閉ざされる傾向はスマホ世代でなくとも私たちにおいても同様のことだ。


そこで私が時折やるのは「メディア洗浄」である。
つまりある一定期間自分の身の回りのメディアを断つということだ。メディアの断捨離と言ってもよいだろう。
あるいはメディア飽食の時代における断食と言ってもよいのかも知れない。
しかしながら私たちにとってメディアは空気のようなものであり、完全にメディアを断つことは社会との縁を切るということだから復帰可能な状態にしておく必要がある。


私はこの情報のプチ断食をだいたい誕生日を境にすることにしている。
期間としては3ヶ月というところか。
時と場合によってまちまちである。
だがここで大切なことは見ざる言わざる聞かざるというように一切情報から耳を塞ぐという頑ななものではなく、日常生活の流れの中で人からの話で耳に入ってきたり見えたりした情報はそのまま受け入れる。



今回の川崎における殺傷事件はちょうどそのメディア断捨離の中で起こった。
つまりリアルタイムでは知らず、数日後に人の口から聞き、ちょうどメディア断食明けに近づいたということもあり、ネットなどの拾い読みをした。


そしてひとつ言えることはこの数ヶ月間私がメディアから日常現実にその受信アンテナの方向を転換したように、情報取得様式がかりに旧社会の様式であった場合、今回の川崎事件のようなことは起こらなかった可能性があるということだ。



メディア断食あけに川崎事件のことを知り、ネットを探っていたところ川崎事件がらみで藤原新也の名前が数件上がっていた。


そのいずれもが私の著作『東京漂流』に取り上げた川俣軍司による深川通り魔殺人事件に言及したものだった。
その論調は、こう言った通り魔事件を時代を象徴する事件として取り上げた藤原は、今回の川崎事件を予見していたというものだ。


だがその観測は当たらない。
1981年に起きた深川通り魔殺人事件と今回の川崎通り魔事件とは対極と言ってよいほどその事件の質は異なる。


茨城の辺境でシジミ取りを生業とし、その後トラックの運転手や寿司職人を転々とした生活を送ってきた川俣はその間の人間関係によるストレスの蓄積の上、それが怨みとなって行きずり殺人に走ることになる。つまり彼はその濃い身体で泥臭いほど現実に深く関わっているのだ。
また事件報道や情報の拡散も当時と今日とでは様相を異にする。


深川事件が起きたのは(ウインドウズが発売され)ネット社会がはじまる95年を遡ること14年前のことで、事件報道は新聞テレビ雑誌に限定され、今日のようにタレントから一般人までが情報の送り手となったリアルタイムのネット上の騒乱というものは当然皆無だった。
事件における濃い身体性、そして情報の送り手と受け手が棲み分けていた時代のそれは、旧社会におけるきわめて人間臭い事件なのである。


だが川崎における通り魔殺人容疑者である岩崎隆一は川俣軍司とは真逆にその身体は虚ろである。
いや虚ろというよりその存在があらかじめ“ない”。
このことは先のトークにも述べたように今日に至ってもその顔写真がない(おそらく犯罪者の顔が視認できないというのは前代未聞のこと)ことが、彼がこの世に“いない”存在であることを象徴している。


その意味において深川の事件は川崎の事件を予見しているとは言えず、むしろ旧社会と新社会の差異が浮き彫りとなった両事件と言える。



川崎事件に見るいわゆる“ヒキコモリ”という新社会における人間の存在(非存在)様式は海外においても見られるが、この日本においては農耕民族固有の同調圧力社会における弱者や異物の排除(いじめ)を発端とすることが多い。
この弱者や異物の排除は就学時固有のものではなく、年功序列終身雇用からアメリカ型の成果(能力)主義へ転換(カルロスゴーン氏の大量解雇による会社立て直しはこの象徴だろう)した雇用形態の中にも潜む。
つまり昨今の社会は就学年代、就職年代の全年代を通じて弱者を排除する社会構造となっている。ヒキコモリとはそう言った弱者排除社会によって抹殺され、ステルス化した新たな時代の身体様式という見方が出来るだろう。


私の近しい団塊の世代夫婦に今回川崎で事件を起こした岩崎隆一と同世代のヒキコモリ体現者Yがいる。
Yは小学校の頃私の房総の家に親子連れでたまに遊びに来ていたが、小学校上級生になっても挨拶もすることもなく、何度か親に叱られていたが、いじけたようなところがあった。
Yはその頃小学校でイジメに遭っていたということをのちに聞いた。
その後夫婦との交流はあまりなくなったが、それから30年、40代になろうとする彼は家の二階の一間に蟄居し続け、奥さんが作った食事を襖を開けそっと差し出す生活が続いている。
彼はいつも薄暗い部屋でパソコンの明かりに照らされており、いつぞやトイレのために階下に降りた隙に奥さんがパソコンを覗いたところ、攻撃的な書き込みが溢れており息子がネトウヨだったことを知ることとなる。
社会から消されステルス化した彼はそのような手段で必死で自分の存在認証を行なっていたわけだ。



川崎の無差別殺人容疑者である岩崎隆一がどのような人生の経路をたどったのか。
誰もが目の前の友人や知人の顔を撮るこのスマホ時代に顔写真一枚出てこないわけだからネットに流布する彼の生活環境を鵜呑みにすることはできないが、ネトウヨ化したYと岩崎隆一とは一つの共通項がある。
それは社会から排除されステルス化した自分を一方はネットの中において他者を傷つける言葉の暴力によって自己承認を得、岩崎隆一は現実の路上で他者を傷つけることで自己承認を得ているということである。


冒頭で私が情報取得様式がかりに旧社会の様式であった場合、今回の川崎事件のようなことは起こらなかった可能性があるという言葉を吐いたのはそのことに関連している。


深川通り魔殺人事件と川崎通り魔殺人事件の中間に起きた通り魔殺人事件として加藤智大による秋葉原通り魔殺人事件が挙げられるが、彼が犯罪を犯したのは就労環境によって彼が排除されたこととなっている。
だがそれは犯罪を犯すきっかけであり、むしろ彼が日常的に埋没していたネット環境の中で自分の存在感を示し、合わせて自己承認を得ることを動機としたと私は思っている。


つまり加藤智大、あるいは私の知人の息子のYと同様、岩崎隆一もまたネットに埋没し、ネットの中で“社会”を築いてていた可能性がないとは言えないだろう。
そのような想定をもとにこの事件を考えるなら、リアルタイムで自らの行動(犯行)が彼の所属する“社会”へ、そして実社会に喧伝され、透明な自己が一気に巨大な存在感を得る、この自己承認のあり方こそ彼が求めていたものかも知れない。


その意味において深川と川崎の間には時代の乖離があり、深川はその存在の重さゆえの犯罪であり、川崎はその存在の軽さゆえの犯罪ということができる。



さらに言えば川崎事件の岩崎隆一は現場で自死をしているという深川と川崎との間には大きな違いがあるのだが、私はこの自死を拘束の屈辱から逃れるためではないかと考えている。


当然罪の意識によるものでもない。
それは世間一般の人々の感覚の理解の範疇にはないことだが、自死もまた彼の自己承認の究極の姿だったのではないかと私には思えるのである。


実存の極みとしての死である。

誤解を恐れずに言えばひょっとすると彼はその現場で他者を殺し、さらに自分を殺すことにエクスタシィを感じていた可能性もあるということだ。



事後ネットやメディアでは「死ぬなら一人で死ね」論争が巻き起こった。
この感情的な攻撃の言葉が、ネット社会で他者叩きに血道をあげる有象無象の言葉ならありうることとしても、一定の社会的常識を持ったワイドショーのアナウンサーまで同じ言葉を吐いていることに驚きを禁じ得ない。


つまり彼らは一人の人間に対して“死ね”という言葉を吐いているのだ。

 


その排除の究極の言葉としての“死ね”は、いじめの現場における究極の他者排除の言葉であり、その排除の論理によって岩崎隆一は誕生し、その排除感覚こそが再び岩崎隆一を再生産することとなる。
そんな健常者すら常軌を逸するという狂った社会を俯瞰しながら私は悪夢に似た想像を膨らませてしまった。


この川崎事件は元農水次官がヒキコモリの息子を殺すという連鎖殺人を生んでいるが、この死ぬなら一人で“死ね”という負の言霊に撃たれたこの日本に100万人(内閣府の調査では61万人)いるとされるヒキコモリの中の何人かが、いやひょっとすると思わぬほど多数の人間が実際にその言葉の凶器によって自死をしている可能性もないとは言えないということである。


仮に人知れずそういうことが起こったとすれば、つまり一人の立派な教育を受けたアナウンサーは柳刃包丁ではなく、その言葉の凶器によって(間接的に)岩崎隆一と同じく殺人を犯したことになる。


最後にこの論考は岩崎隆一の犯した犯行を擁護するものではない。
この犯罪は悪質な蛮行であり、論考は事件の構造を述べたまでである。


     

 

2019/04/01(Mon)

劇場化された新元号に関して。(Cat Walkより転載)

「令和」



ああそう、という感じである。

ただ文字としては座りが悪い。



書家としての船長は文字を見ると筆を取ったとき、真っ先にこの文字を書きたくなるかどうかということがまず頭をよぎるわけだが、この令和には揮毫したいという意欲をそそる魅力がまったくない。

それはこの人を見て写真に撮りたくなるかどうかと同じであり、令和には写真に撮りたい“姿”というものがないということである。



それにかりに揮毫したとして縦書きにしても横書きにしても“筋”が見えない。

筋とは例えば人間の背骨のような基本骨格であり、それがないからこの令和という文字は堂々と立っていないのである。

史実や古典から意味先行で拾ったいかにも日本人的頭でっかちな選びであり、頭で生きている首相から懇々と意味を言い聞かされるごとに鼻白む。






それに新元号に対する熱狂が過剰である。

元号であろうと人の名前であろうと名前が変われば確かに気分は変わるだろうが根本的な何かが変わるわけではない。



昭和天皇が崩御されて平成になる折は今回ほどの大騒ぎにはならなかった。

また平成新元号の折は小渕長官が「平成」書を掲げるわけだが当時の竹下総理は今日の安倍総理のように大々的な会見を開くようなことはなく、囲みでコメントを求められ、それに淡々と答える程度のことだった。



それから見てもこの安倍総理の舞い上がりぶりは、内閣支持率が一つの人気の指標となった今日、新元号に便乗しての人気取りの恣意が透けて見える。







だが平成元号の発表時と新しい元号である令和の発表時の今、それとこれの何が異なるかというと、平成においては未曾有の災害である東日本大震災と福島原発事故を経験したということだ。

もともと農耕民族であり、自然崇拝のDNAを持つ日本人にとってこの大災害は心の深層に深い傷跡を残し、いまだにその傷は癒えていない。

また戦後復興と高度成長の牽引となった原発エネルギーが崩壊したことも先進国としての自信を失わしめるに十分な出来事だった。



この巨大災害と事故はその後何をもたらしたというと災害事故によって発症する被害妄想から来る居直りめいた日本賛美と右傾化である。



日本はこんなに美しく素晴らしい。



外国人はこんなに日本を賛美している。



震災以降、テレビをはじめとする様々なメディアで日本賛美番組や記事がゾッとするほど増えたことは皆さんもご承知の通りである。

これはこのたび国連がまとめた世界の国々の幸福度ランキングの日本58位とは大きく乖離しており、特に寛容度、自由度の面で評価度が低かったのは安倍政権の姿とぴったりと重なり合う。







新元号令和はそういった大震災や原発災害で自信を失い、その反動としての日本賛美や一部の過激な右傾化の排出した時代背景の中で発表されたということだ。

この過剰な熱狂もまた私には平成時代に発症したひとつの精神的外傷の発露のように受け取れるのである。



因みにこの元号というものは一つの時代の名称であり、あまねく国民が偏った意識を持つことなくその名称の下で暮らすわけだが、ここのところの日本賛美と右傾化というものを反映してか一部のシーンで考え違いをしている風景が垣間見え気持ちが悪い。

その象徴が元号に関する有識者懇談会のメンバーである宮崎緑さんの出で立ちだ。



彼女は確か元NHKのアナウンサーだったと思うがいつの間にかこういった政府関係の会合の度々顔を出し、それ自体は別に取りざたすべきものではないが今回の懇談会で着てきた衣装が昨今の右傾化と日本回帰的な風景丸出しの巫女さんのような出で立ちで非常にグロテスクである。



また先ほどNHKの特番を見ていると安倍政権と蜜月関係にあるNHK解説委員の岩田明子がなぜか顔を出していた。

こういったグロテスクでさえある右傾化と私たちが日常的に共有する時代名称とは全く無縁でなくてはならないということを心に留め置かなくてはならないだろう。



付け加えるなら平成の書を持った小渕には若干天然が入っており、それはそれなりに様になっていたが、令和の書を持つ人物があまりにも陰々滅々として暗すぎる。

作り笑みも嘘くさい。

何か行き先が暗くなるような菅にこれからの時代を担う書をなぜ持たせるのか。



別に政府関係のむさ苦しいオヤジが書を持たなくてはならないという決まりがあるわけではないから私がディレクションするならローラちゃんとかりゅうちぇる君なんかに書を持たせる。



こっちの方が絵として映えるし、ずっと未来が明るく感じられる。

     

 

2019/02/20(Wed)

自虐テロリズムとしての不適切動画。

10年前のことだが、仕事関係でやってきた民放のテレビの女性ディレクター(当時20代)と四方山話をしていて少しショッキングな話が出た。



彼女が10代の時にファストフード店でアルバイトをしているとき、嫌な客がいた。そこで彼女は厨房から盆を運ぶとき注文を受けたポタージュスープに唾を入れてテーブルに出したというのである。



彼女は笑い話に軽く言ったつもりらしかったが、教養のある彼女がそのような行いをしているということに多少のショックを受けた。

その時は顔には出さず、そのまま仕事上の付き合いは続いたが、その女性のことを思うと記憶に刺さった小さなトゲのようにそのことを思い出すのである。

女性の行いは特殊なものと思いたかったが、その一件を知ってこのような行いはあんがい人知れず行われているのではないかとの思いを抱くようにもなった。







このたび不適切動画なるレストランの厨房での食品を汚す悪ふざけ動画が流されたとき、真っ先に思い出したのはそのことだった。

だが彼女の行為と今回の件とは異なる部分がある。



それはターゲットが違うということだ。彼女のターゲットは客である。だが今回の動画の青年(あるいは少年)のターゲットは客ではない。

いやおそらく彼らは自分の行なっている行為は単なる悪ふざけに過ぎず、ターゲットがあるということは意識の中にないのかも知れない。だが不規則行為というものには必ず動機があり、そこに動機があるとすればそれはおそらく彼らが携わる労働の虚しさと、虚しい労働に日々勤しまねばならない自虐ではないかと私には思われるのである。



今回不適切動画の現場になったのはセブンイレブン、ファミリーマート、すき家、くら寿司、ビッグエコー、バーミヤン、大戸屋、などだが、いずれもそこに共通するのはチエーン店であるということだ。



チエーン店と聞けば各店舗共通の細密なマニュアルがあり、そのマニュアル通りに人間が動かなければならない人間のロボット化が必須条件となる。



またもうひとつその虚しさを補強するものがある。

それはそこに人間関係が見えないということである。



当然そのような分散型の大きな組織ではもとより統括している人間の姿は見えない。

店舗によっては店長以下全員バイトか派遣社員というところもあり時には店長すら派遣社員ということもある。

つまりそれは集団生活に必要な人間の絆やトラストや情の関係が築かれていない虚無的集団であると言える。

さらには、人間の歴史においてかつてこのような虚無的集団は存在し得なかったとさえ言える。











加えて昨今の世の中の労働環境の劣悪さがこの虚しさに追い打ちをかける。

例えば日本とスケールの似た国のイギリスで一時期暮らしていた若者に聞くと政府で取り決めている労働賃金が日本円に換算して時給は1300円以上(違反した場合厳重な罰則がある)と高レベルであり、しかも向こうにはチップ制があるので若者の生活は結構潤っているそうだ。



だがこの日本では派遣労働者やバイトの賃金体系は低く、目一杯働いて月13万〜15万の稼ぎで何とか食い繋いでいるという事例は枚挙にいとまがない。

ちなみに大戸屋の時給は850円程度、労働のための私用の靴持ち込みは禁止で配給される靴は買い取らねばならず、給料から天引き、交通費は一日500円で超過した場合は自腹。朝礼のために15分前に集合だがこの15分間はスキャンの対象ではないなど、薄給の上理不尽な出費を負わされている。



今回の動画は24時間で自動削除されるインスタグラムのストーリーを使っており、フェイスブックと同じく限られた仲間同士で視聴する仕組みになっている。

そこではおそらく虚無的労働を低賃金で働かざるを得ない現代の典型的な貧困青少年のクラスター(房)が存在し、そのクライアントをあざ笑うような跳ね上がり分子の投稿動画を見て互いに傷を舐め合うように面白がる自閉集団が目に見えるようだ。



つまり以上のようなことを考えると、この不適切動画というのはいかにも日本的事件(現象)であり「働き方改革」という美名の元、大企業優遇と若者の奴隷化に邁進する、すぐれて安倍政権下的現象(事件)とも言えるわけであり、こう言った為政が続く限り今後さらにエスカレートした自虐的テロリズムが起きうる可能性もあるだろう。






     

 

2018/10/31(Wed)

焼き肉ご馳走にあたいする青年だった。(CAT WALKより転載)

昨日、私のアトリエに一人の中年と一人の青年が来た。

マンションの名義変更のためにこれまで何度か顔を合わせている不動産業者である。

昨日はその仕事の閉めということで完成した書類を持参した。

青年はこの仕事の実務担当で、ひとりはその上司。

こういった簡単な仕事は担当者一人で十分だが、上司は仕事の終わりに際して挨拶に来た。



書類を受け取り、しばしの四方山話になったとき、不動産の仕事が昨今IT化され現地を案内するようなことが少なくなったという話が出た。

現場を写した立体動画を収録したゴーグルを客に渡すことが多く、仕事が味気なくなったというのである。その不満が30代の若い者の方から出たのが意外だった。

この一家言あるらしい青年は私が世界を歩いた物書きということで聞いてみたいことがある風で話題はトランプや北朝鮮の話になった。

青年は中国や北朝鮮は危ないので日本も軍備をちゃんとする方がいいとも言った。



青年は昨今ありがちな体制順応型の少々右っぽい感じのする青年だが、以前このトークで出てきた福島第一原発事故がどのようなことかすら知らなかった工務店勤めの「カーテン青年」に比べると、世の中のことに関心を持っているだけましだった。

そういった国際政治の話の流れで話題は自然と昨今タレントも巻き込んで展開されている安田純平解放に絡む自己責任の話に及んだ。



青年は世の中のアベレージな考えを持っているようで自分たちの収めた税金が人質解放に使われることに釈然としないという。

そこで話をわかりやすく持って行くために私は大使館の話をした。



「世界各国に大使館があるだろ。

当然あれも君が収めている税金で運営されているわけだが、大使館というのはその国との実務的橋渡しもしているが、もう一つの役割は、その大使館の置かれている国の情報収集なんだ。

むしろこちらの役割の方が大きいかもしれない。

世界各国の現場から送られてくる生な情報は外交に生かされるとともにその国の経済活動の指針にもなるわけだ。

だがそういった情報収集の出来ない国というのがある。

今話題になっているシリアがそうだね。

日本は紛争が激化してきたということでシリアの日本大使館を2012年に閉鎖しているんだ」



「へえ大使館のない国があるんですか」



「そうだよ。シリアでは日本は情報収集の手段を完全に失っているわけだ。

当然大使館のみじゃなく、情報取得を専門とする新聞雑誌テレビなどのマスメディアも昔と違って昨今は安全管理が優先され、このような紛争地に入って報道というのはまずなくなり情報の空白地帯ができあがる。

そんな国に安田純平は入っているわけだ。



君たちは知らないが、こういったフリーのジャーナリストの発信する情報は自分たちが知り得ない情報も含まれていたりするから外務省はひとつの実務として集めている。国際情報官室という諜報部署がこれにあたるんだね。

ましてや大使館を閉鎖して完全に情報の空白地帯となったシリアなどの情報は非常に貴重だ。中東が石油産出のメッカということもあり、どんな情報でも喉から手が出るほど欲しい。

外務省は表向きは紛争地には行くなと言いながら、そこに赴いた者の発信する情報はちゃっかり収集しているということだね。



以前シリア政府軍が毒ガス兵器を使ったのではないかという国際的非難が起きたが、かりに現地に入っているフリーのジャーナリストがその証拠を掴んだりなんかすると国際情勢は一変するというようなことも起こりうる。彼らはそういう意味で国際情勢のキャスティングボードを握る場合もありうる。



そういう意味では命知らずで現地に入り込んでいるジャーナリストのもたらす情報というのは貴重だし、結果的に国益にも寄与することになる。君の税金がジャーナリスト解放に使われたとしても彼らのもたらす情報は時には日本経済運営にも寄与しているわけだから無駄ではないということだ」



「だけど彼らはそもそも日本の国益のためにシリアに入ったわけじゃないですよね」



「そうだね。結果的に国益に寄与しているかも知れないということだ」



「それなら彼らのために税金は使う必要はないと思うんですけど」



「確かに日々利潤追求のために働いている君のその考えは一面正しいかも知れない。

だがひとつだけ君が見落としていることがある」



「何ですか」



「社の利益になるか、国の利益になるか、ということが評価となる世界を君は生きているわけだが、世の中には異なった価値で動いている人もいるということだ」



「どういう利益ですか」



「人益だね」



「……?」



「人類益という言い方も出来るかも知れない。

今回の安田純平解放問題に絡んで学者から弁護士からタレントまでからんで色々な意見が飛び交っているが、アメリカで野球をやっている君より若いダルビッシュが一番明快なことを言った。

彼は危険な地域に行って拘束されたのなら自業自得だ!と言っている人たちにはルワンダで起きたことを勉強してみてください。

誰も来ないとどうなるかということがよくわかります、と言ったんだ。



彼は94年にフワンダで起きた100万人にも及ぶという大虐殺のことを言っているわけだ。その映画を見たらしい。

あの国ではジャーナリストも虐殺され、誰もその国に入らなくなり、そう言った中で凄惨な殺戮が起こった、そのことをダルビッシュは言っているわけだ。

いかにも海外でもまれた青年の意見だね。

世界でもまれているサッカー選手の本田圭祐も安田を擁護している。

反対に自己責任を声高に言う人間は自分の国に自閉した者が多いのが面白い。



そのダルビッシュが取り上げたルワンダのようなことがシリアでも起きないわけじゃない。ルアンダ同様情報が閉ざされているためそこで何が起こってもわかならい。



つまりこういったジェノサイドを報道することは国益などというちっぽけなものではなく、この地球に生きるすべての人のための人益なんだね。

そういう考えのもとで命を張っている人間もいるということを君たちのような者は知る必要がある」



「だけど自分はシリアで人が殺されようとルワンダで人が殺されようと何か知ったことじゃないというか、あまり身にはつまされないというか」



私に対する反発がそのような言葉を吐かせるのか、それが青年の本音であるのか釈然としないまま、私はその言葉に怒りを覚え、ついお前と言った。



「お前のようなヤツがいるから世の中が腐っていくんだ。お前、恋人はいるんかい?」



「いますよ」



「何て言う名前?」



「◉◉です」



「◉◉ちゃん料理は上手?」



「最近はふぁふぁのオムレツに凝っていて、すごく美味しいです」



「おめでたいことだな。

君が彼女のアパートに行って彼女が作ったそのふぁふぁのオムレツを二人で食いながらテレビでバライティ番組を見ている最中にだな」

「はい」

「とつぜんドアを蹴破って入った来た自動小銃を持った複数の大男が、いきなりお前に銃を突きつけ、お前の目の前で◉◉ちゃんを輪姦してだね。

そのあげく彼女の肛門に自動小銃の銃身を突っ込んでダダダッと弾をぶっ放したらどうする」



「やめてくださいよ、そんな話」



「やめない。これはモンゴルで実際にあった話なんだ。それ以上にここでは口に出来ないような凄惨な話もたくさん記録されている」



「そんな残酷なこと、誰がやったんですか」



「中国の漢民族だ」



「やっぱり危ないじゃないですか、中国というのは」



「うん、そこはちょっと一致しているかも知れないな。中国は確かに危ない。

モンゴル人の虐殺だけじゃなく、チベット人を大虐殺して傀儡国家を建てている件でもそうだが、今は新疆ウイグル地区で報道管制を引いて100万人もの政治犯と言われる者たちを強制収容して日々拷問をしている。君もいつまでもふぁふぁのオムレッツを彼女と一緒に食べられると思ったら大間違いなんだ」



「どういうことですか?」



「俺は右翼でも左翼でもないんだけど、かりに日本と中国の間に戦争が起こり敗戦した場合、日本のチベット化、ウイグル化はまったく起こりえないことではないと思っている。

つまり君が彼女と一緒にオムレッツを食っている最中にあの目を覆うような凄惨なことが起こるのというのは、まったく荒唐無稽な話でもないということだね。



中国はチベットでナチスがユダヤ人を殺した以上の人間を虐殺しているわけだが、かりに日本でそういうことが起こっている最中にだな、

たとえばどこかの国の青年ジャーナリストが日本に潜伏してその状況を世界に発信し伝えようとする。

自分の彼女を輪姦の上虐殺された君はその青年のことをどう思う?」



「……」



「かりにその青年が中国当局につかまり、運良く外交交渉の末帰国が叶ったとする。

だがその青年は自国に帰るなり自己責任のバッシングの嵐に遭い、つるし上げられる。

君はそのことをどう思う?」



「……」



「つまりなだ、君は今そういう人益のために命を張った青年を国益に反するということでバッシングに荷担しょうとしている心の狭い人間ということだ。

今この日本ではそういう馬鹿者が雨後の竹の子のように気持ち悪いほどうようよしているということだな」



黙って聞いている上司は時間のことを気にしている風で「◉君やっぱり先生の話はちゃんと聞くとためになるよね」とつまらないおべんちゃらを使う。



だが少々とんがった青年は案外素直なところを見せ「いまのような自分のこととして話を聞くとなんとなくわかったというか、そういうことは思っていなかったのでためになりました」と言った。



私は今度焼き肉をごちそうするよと言って別れた。

自分の話を納得してくれたからではない。

こういった一介の会社勤めの青年が少々偏った考えであっても世の中や世界情勢に興味を持っていたことが嬉しかったのである。



     

 

2018/10/29(Mon)

狂った時代感覚は自分で飲み込め。それを他者に押しつけてはいけない。

「フリージャーナリストっていうのは現地へ行って記事を書いて、それを出版社に売って儲けるわけでしょ?戦場カメラマンと同じで、危険を冒してもいい写真を撮りたいわけじゃん。仕事のために危険を冒すのはリスクだから、それに政府がお金を出したのかどうかはわからないけど…どうなんだろうね」



ビートたけしの時代感覚がここまでずれているとは思わなかった。



60年前のベトナム戦争時じゃあるまいし、今どきジャーナリストが戦場に行って本を書き、それで”儲ける”というようなノーテンキな話はありえない。

写真もしかりである。

ピューリッツァー賞なんてすでに有名無実。

アメリカと同じく自国主義で内向化したこの日本では他国の戦場でネタを拾ってきてもテレビも雑誌も興味を示さず、ジリ貧の出版社は出版さえためらう時代なのである。

かりに出版に漕ぎつけてもせいぜい初版3、000部の世界であり、つまり数年の働きの結果が印税45万円。

再版ナシが普通。

これでは莫大な取材費の足しにもならない。



年収20億、3億のブガッティシロンを乗り回すのはまことにご立派の限りだが、自分の狂った金銭感覚を地を這うようにして生きているジャーナリストにまで押しつけるのはよした方がいい。

     

 

2018/09/19(Wed)

諦観のやすらぎの中で逝く。(Cat Walkより転載)

同じ釜の飯を食った者が逝ったとの思いがしなくもない。
樹木希林は1943年1月生まれ。
船長より1歳年上だがほぼ同年代と見て良いだろう。
戦火の中で親が情交して生まれた40年代の前半に生まれた世代はいたって数が少ない。

戦争が終わった45年の平和時に種付けられ、46年以降に生まれたいわゆる団塊の世代は44年以前の世代に較べると圧倒的に数が多い。
樹木と私の世代はちょっと不埒(ふらち)なところがあり、頑固で群れることが嫌いと、それ以降の世代とはわずか数年の差だが大変異なる。
そういう意味で彼女は極めて戦時生まれ的性格を所有しているということだろう。
同じ釜の飯を食ったとはそういうことだ。

いつだったかそんな彼女が私の目の前に不意に現れたことがある。
円卓が会場の方々にあり、出席者が着席していたから何かゆかりの者の結婚式だったかも知れない。
その円卓に座っていると、隣の円卓から一人の女性がトコトコと歩き、私の前に立って腰を低くし「はじめまして樹木希林と申します。いろいろ読まさせていただいております」と言った。
残念ながら私がその時どんな受け答えをしたのかさっぱり記憶から飛んでいる。

彼女とはそれっきり縁がない。
だが何年か前に映画「おくりびと」でアカデミー賞を取ったおりにその映画の主演をつとめた樹木希林の娘婿の本木雅弘君が私に連絡を取って来たことがある。

その折の経緯も詳しくは覚えてはいないが「おくりびと」の発想は本木君がかねがね読んでいた「メメント・モリ」が起点となっていて、その脚本制作時に青木新門さんの「納棺夫日記」も参考にした。

そんな縁があり、彼が私に対談を申し込んで来たということだろう。
その対談は房総の海際のアトリエで行い、浜辺で写真を撮った。

その別れ際に携帯番号を交わしたが、その番号を書いた紙を紛失したので、以降樹木希林と同様、本木君とも親交を交わす機会がなかった。

だが何年か前のことだがテレビで樹木希林が今年の言葉を求められ「漏」という言葉を色紙に書いているのを見て、ひょっとしたら彼女はまだ私のことをフォローしているのかなと思った。
というのは「諸行無常」のおり、奈良の神社で今年の言葉として「漏」という書を揮毫し、それを週刊誌に発表していたからである。

そして今回、樹木希林が逝き、その後の彼女が残した死への諦観とも受け取れる言葉の数々を知って思うことは実はこの「メメント・モリ」は私の本の読者でもあった樹木希林が娘婿の本木君に伝えたのではないかということである。

その本木君はこの本を起点に素晴らしい仕事をし、樹木希林は自からの死を賭してある意味でメメント・モリを越えたとも言える。

見事な死だったと、そう思わざるを得ない。

合掌




「朝日の当たる家」(Cat Walkより転載)


1966年に日本武道館で行われたザ・ビートルズの日本公演は今では伝説になっているが、船長はこの公演に居合わせたラッキーな日本人のひとりである。
だが私がとくだんビートルズのファンだったというわけではない。
当時ビートルズは全世界が騒がれていたが、街でチンピラ稼業をやっていた私にとっては対岸の火事でどうでもいいことだった。

そんな街の馬の骨のような青年に思わぬ話が舞い込んで来た。
ある組の幹部が絶対に手に入らないというザ・ビートルズの日本公演のチケットを10枚も手に入れたのだ。今も大差はないが、やはりこの世界ではヤクザ組織が関わっているということだ。
そのチケットを兄貴分と一緒に武道館に行って売ってこいと6枚渡された。

確か額面は2、000円くらいだったと思う。
当時としてはなかなかの額である。
10倍の2万円くらいで売ってこいと言われた。
水増し分売り上げの二割をくれるということだったから大喜びだった。

だが兄貴分と勇んで武道館の方に行ってみて驚いた。
地下鉄の神保町から武道館までの道筋にずらりとダブ屋が居並び、通行人に声をかけているではないか。
客を拾うのが大変だった。

結果的に4枚売れたが確か2倍の4〜5千円くらいだったと思う。
公演時間が近づき焦った。

だがとうとう2枚チケットが余ってしまった。
親方のどなり顔が浮かんだ。

「どうする、これ?」

兄貴分が余ったチケットを手に言った。

「公演が終わったらただの紙切れですら、自分たちで見るしかないんじゃいですか」

私はそう答えた。

「ただ半券しか持って帰らなかったら、チケット代払わされるかも知れないぞ」

「そうだとしても紙くずになるより、見た方がいいと思います」



そのような経緯で私は伝説のビートルズ日本公演を見ることになったわけである。

シートは上階のステージから遠いとことだった。

壇上に司会が出て来て「ああしてはいけない、こうしてはいけない」とさまざまな注意をたれてうざかった。
司会が下がり、いよいよビートルズが現れるかと思ったら、日本人タレントが次から次に出て来て演奏したが音響が悪いためただの騒音にしか聞こえなかった。
日本人タレントが下がり、いいよいよビートルズが現れると開場は熱狂の嵐で歌はぜんぜん聞こえなかった。

隣のシートを見ると兄貴分は眠っていた。

公演はあっと言う間に終わった。



樹木希林の死を知ったあと、私はふとこのビートルズ日本公演のことを思い出した。
のちにこのビートルズ日本公演の前座をつとめた日本人ミュージシャンの中に樹木希林の夫の内田裕也がいたことを知ったからである。
いろいろと探すと以下のようにビートルズ日本公演の前座公演の記録があった。

https://www.youtube.com/watch?v=fQPKSbHoTYk

樹木希林はこのうら若き内田裕也に惚れたのだ。
内田裕也と言えばこれといったヒット曲はない。
だが樹木希林は内田裕也の歌うある曲に惚れたということを樹木の死後に知った。

1964年にリリースされたアニマルズの曲「朝日の当たる家」である。

私はユーチューブを開き、その内田裕也の歌う「朝日の当たる家」を聴いてみた。

なかなかいい。

若き頃歌った「朝日の当たる家」、年老いて歌った「朝日の当たる家」

そのどちらもが良かった。

https://www.youtube.com/watch?v=kwOA2WQgaNM
若い日の「朝日の当たる家」。

https://www.youtube.com/watch?v=H6LCNRlnK2o
年老いた「朝日の当たる家」。

この歌を聴くと樹木希林が内田に惚れたのもうなづける。




だが樹木希林その歌から読み取れなかったものがあるかも知れない。

「朝日の当たる家」ギャンブラーの歌である。
スーツケースひとつ持ってニューオルリンズを彷徨う酒びたりでギャンブルに溺れた男。
そんな男に惚れた女性の悲しい歌だ。

内田裕也がその歌の主人公そのものであったかどうかはわからない。
だが彼は家庭というものを嫌い、家を飛び出した。
樹木希林はそれを許した。

だがいかに豪毅な女性でも女性は女性である。

どこかに淋しさとストレスを抱え込んでいたに違いない。

あるいはそれが早死にという結果に結びついたのかも知れない。

私は武道館の前座に出ている若き内田裕也の映像を音を消して何度も見た。

そこには、そのステージをボンヤリと見ている22歳のチンピラの姿も映り込んでいるような気がする。

     

 

2018/08/18(Sat)

記載漏れの件。

すでにこれは私のサイトCAT WALKで記述していることだが、記述漏れがあるので今回の件につき以下の文言を付け加える。




それは尾畠さんが現場に到達した時間のことである。


報道によるとはじめのころは20分、その後30分と報道されているが、この時間の間尺はおそらく時計で計っているわけでもなかろう尾畠さんのアバウトな時間感覚をもとにしている。


私が20分の報道内容をとったのは尾畠さんはもう少し短い時間で現場に到達していたのではないかとの思いがあったからだ。


人の歩く速度は1時間4キロメートル。

つまり1分66メートル。

祖父宅から現場までの距離が580メートル(560メートルとの報道もある)。

ということは単純計算すると580メートルを歩くには8.7分で足りることになる。


尾畠さんは78歳の今も日々8000メートルのランニングを行っており、山登りのエキスパートでもあるから、荒れているとは言えすでに山道のある登りは朝飯前だろう。


ましてやとりやまとカラスの鳴き声をめざし、一刻を争いながらターゲットに向かったとするなら急ぎ足だったということも考えられる。

ひょっとしたら彼は10分以内、あるいは6〜7分で現場に到達したということも想定内に置いてもよいだろう。

あくまでこの計算は私の憶測だが、かりにその憶測が当たっているとすれば尾畠さんはなぜ20分、30分と申告したのか。

その真意は不明である。

ひょっとしたら時間感覚にきわめてアバウトな方のかも知れないとも思う。

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