Shinya talk

     

 

2019/06/14(Fri)

川崎通り魔殺人事件に関する雑感。(CatWalkより転載)

3月4日の誕生日を過ぎてひとつ試みていることがある。
昨今の社会では人々は情報をスマホ、テレビ、新聞、雑誌などのメディアによって取得する率が大きくなっている。
電車の中で時にはほとんどの乗客が下を向いてスマホを操作していたり画面に見入っていたりする光景がこのことをよく表している。車窓では彼らが何年も通っている日常風景が流れているわけだが、ひょっとすると人によってはそれは見知らぬ風景であるのかも知れない。


こういったメディアによる情報の取得率が拡大するにつけ、日常や現実にブラインドが降りてしまうという本来人間の身体が求めている現実との風通しが閉ざされる傾向はスマホ世代でなくとも私たちにおいても同様のことだ。


そこで私が時折やるのは「メディア洗浄」である。
つまりある一定期間自分の身の回りのメディアを断つということだ。メディアの断捨離と言ってもよいだろう。
あるいはメディア飽食の時代における断食と言ってもよいのかも知れない。
しかしながら私たちにとってメディアは空気のようなものであり、完全にメディアを断つことは社会との縁を切るということだから復帰可能な状態にしておく必要がある。


私はこの情報のプチ断食をだいたい誕生日を境にすることにしている。
期間としては3ヶ月というところか。
時と場合によってまちまちである。
だがここで大切なことは見ざる言わざる聞かざるというように一切情報から耳を塞ぐという頑ななものではなく、日常生活の流れの中で人からの話で耳に入ってきたり見えたりした情報はそのまま受け入れる。



今回の川崎における殺傷事件はちょうどそのメディア断捨離の中で起こった。
つまりリアルタイムでは知らず、数日後に人の口から聞き、ちょうどメディア断食明けに近づいたということもあり、ネットなどの拾い読みをした。


そしてひとつ言えることはこの数ヶ月間私がメディアから日常現実にその受信アンテナの方向を転換したように、情報取得様式がかりに旧社会の様式であった場合、今回の川崎事件のようなことは起こらなかった可能性があるということだ。



メディア断食あけに川崎事件のことを知り、ネットを探っていたところ川崎事件がらみで藤原新也の名前が数件上がっていた。


そのいずれもが私の著作『東京漂流』に取り上げた川俣軍司による深川通り魔殺人事件に言及したものだった。
その論調は、こう言った通り魔事件を時代を象徴する事件として取り上げた藤原は、今回の川崎事件を予見していたというものだ。


だがその観測は当たらない。
1981年に起きた深川通り魔殺人事件と今回の川崎通り魔事件とは対極と言ってよいほどその事件の質は異なる。


茨城の辺境でシジミ取りを生業とし、その後トラックの運転手や寿司職人を転々とした生活を送ってきた川俣はその間の人間関係によるストレスの蓄積の上、それが怨みとなって行きずり殺人に走ることになる。つまり彼はその濃い身体で泥臭いほど現実に深く関わっているのだ。
また事件報道や情報の拡散も当時と今日とでは様相を異にする。


深川事件が起きたのは(ウインドウズが発売され)ネット社会がはじまる95年を遡ること14年前のことで、事件報道は新聞テレビ雑誌に限定され、今日のようにタレントから一般人までが情報の送り手となったリアルタイムのネット上の騒乱というものは当然皆無だった。
事件における濃い身体性、そして情報の送り手と受け手が棲み分けていた時代のそれは、旧社会におけるきわめて人間臭い事件なのである。


だが川崎における通り魔殺人容疑者である岩崎隆一は川俣軍司とは真逆にその身体は虚ろである。
いや虚ろというよりその存在があらかじめ“ない”。
このことは先のトークにも述べたように今日に至ってもその顔写真がない(おそらく犯罪者の顔が視認できないというのは前代未聞のこと)ことが、彼がこの世に“いない”存在であることを象徴している。


その意味において深川の事件は川崎の事件を予見しているとは言えず、むしろ旧社会と新社会の差異が浮き彫りとなった両事件と言える。



川崎事件に見るいわゆる“ヒキコモリ”という新社会における人間の存在(非存在)様式は海外においても見られるが、この日本においては農耕民族固有の同調圧力社会における弱者や異物の排除(いじめ)を発端とすることが多い。
この弱者や異物の排除は就学時固有のものではなく、年功序列終身雇用からアメリカ型の成果(能力)主義へ転換(カルロスゴーン氏の大量解雇による会社立て直しはこの象徴だろう)した雇用形態の中にも潜む。
つまり昨今の社会は就学年代、就職年代の全年代を通じて弱者を排除する社会構造となっている。ヒキコモリとはそう言った弱者排除社会によって抹殺され、ステルス化した新たな時代の身体様式という見方が出来るだろう。


私の近しい団塊の世代夫婦に今回川崎で事件を起こした岩崎隆一と同世代のヒキコモリ体現者Yがいる。
Yは小学校の頃私の房総の家に親子連れでたまに遊びに来ていたが、小学校上級生になっても挨拶もすることもなく、何度か親に叱られていたが、いじけたようなところがあった。
Yはその頃小学校でイジメに遭っていたということをのちに聞いた。
その後夫婦との交流はあまりなくなったが、それから30年、40代になろうとする彼は家の二階の一間に蟄居し続け、奥さんが作った食事を襖を開けそっと差し出す生活が続いている。
彼はいつも薄暗い部屋でパソコンの明かりに照らされており、いつぞやトイレのために階下に降りた隙に奥さんがパソコンを覗いたところ、攻撃的な書き込みが溢れており息子がネトウヨだったことを知ることとなる。
社会から消されステルス化した彼はそのような手段で必死で自分の存在認証を行なっていたわけだ。



川崎の無差別殺人容疑者である岩崎隆一がどのような人生の経路をたどったのか。
誰もが目の前の友人や知人の顔を撮るこのスマホ時代に顔写真一枚出てこないわけだからネットに流布する彼の生活環境を鵜呑みにすることはできないが、ネトウヨ化したYと岩崎隆一とは一つの共通項がある。
それは社会から排除されステルス化した自分を一方はネットの中において他者を傷つける言葉の暴力によって自己承認を得、岩崎隆一は現実の路上で他者を傷つけることで自己承認を得ているということである。


冒頭で私が情報取得様式がかりに旧社会の様式であった場合、今回の川崎事件のようなことは起こらなかった可能性があるという言葉を吐いたのはそのことに関連している。


深川通り魔殺人事件と川崎通り魔殺人事件の中間に起きた通り魔殺人事件として加藤智大による秋葉原通り魔殺人事件が挙げられるが、彼が犯罪を犯したのは就労環境によって彼が排除されたこととなっている。
だがそれは犯罪を犯すきっかけであり、むしろ彼が日常的に埋没していたネット環境の中で自分の存在感を示し、合わせて自己承認を得ることを動機としたと私は思っている。


つまり加藤智大、あるいは私の知人の息子のYと同様、岩崎隆一もまたネットに埋没し、ネットの中で“社会”を築いてていた可能性がないとは言えないだろう。
そのような想定をもとにこの事件を考えるなら、リアルタイムで自らの行動(犯行)が彼の所属する“社会”へ、そして実社会に喧伝され、透明な自己が一気に巨大な存在感を得る、この自己承認のあり方こそ彼が求めていたものかも知れない。


その意味において深川と川崎の間には時代の乖離があり、深川はその存在の重さゆえの犯罪であり、川崎はその存在の軽さゆえの犯罪ということができる。



さらに言えば川崎事件の岩崎隆一は現場で自死をしているという深川と川崎との間には大きな違いがあるのだが、私はこの自死を拘束の屈辱から逃れるためではないかと考えている。


当然罪の意識によるものでもない。
それは世間一般の人々の感覚の理解の範疇にはないことだが、自死もまた彼の自己承認の究極の姿だったのではないかと私には思えるのである。


実存の極みとしての死である。

誤解を恐れずに言えばひょっとすると彼はその現場で他者を殺し、さらに自分を殺すことにエクスタシィを感じていた可能性もあるということだ。



事後ネットやメディアでは「死ぬなら一人で死ね」論争が巻き起こった。
この感情的な攻撃の言葉が、ネット社会で他者叩きに血道をあげる有象無象の言葉ならありうることとしても、一定の社会的常識を持ったワイドショーのアナウンサーまで同じ言葉を吐いていることに驚きを禁じ得ない。


つまり彼らは一人の人間に対して“死ね”という言葉を吐いているのだ。

 


その排除の究極の言葉としての“死ね”は、いじめの現場における究極の他者排除の言葉であり、その排除の論理によって岩崎隆一は誕生し、その排除感覚こそが再び岩崎隆一を再生産することとなる。
そんな健常者すら常軌を逸するという狂った社会を俯瞰しながら私は悪夢に似た想像を膨らませてしまった。


この川崎事件は元農水次官がヒキコモリの息子を殺すという連鎖殺人を生んでいるが、この死ぬなら一人で“死ね”という負の言霊に撃たれたこの日本に100万人(内閣府の調査では61万人)いるとされるヒキコモリの中の何人かが、いやひょっとすると思わぬほど多数の人間が実際にその言葉の凶器によって自死をしている可能性もないとは言えないということである。


仮に人知れずそういうことが起こったとすれば、つまり一人の立派な教育を受けたアナウンサーは柳刃包丁ではなく、その言葉の凶器によって(間接的に)岩崎隆一と同じく殺人を犯したことになる。


最後にこの論考は岩崎隆一の犯した犯行を擁護するものではない。
この犯罪は悪質な蛮行であり、論考は事件の構造を述べたまでである。


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