Shinya talk

     

 

2016/02/26(Fri)

日本死ね!!!問題、その他の日本死ね、問題。(Cat Walkより転載)

すでにご存知と思うが今月15日にはてな匿名ダイアリーに主婦が投稿した「保育園に落ちた日本死ね!!!」が各方面で話題になっている。

15日の時点で情報が寄せられ、これは話題になるかもと思っていたら案の定拡散した。

ののしり言葉汚くもなかなか正論である。

必要は発明の母というが、切実な思いがあるからこそこういった簡潔な文章の中で自分の思いを訴えることが出来たのだろう。








「なんなんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ。

昨日見事に保育園落ちたわ。

どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか」「子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ? 何が少子化だよクソ。

子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからって言ってて子供産むやつなんかいねーよ」

「不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増せよ。

オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。

エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。

有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。

どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。ふざけんな日本」

「保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。

保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。

国が子供産ませないでどうすんだよ。

金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから・・・国会議員を半分くらいクビにすりゃ財源作れるだろ。まじいい加減にしろ日本」



この投稿に対してのさまざまな反応の中で「保育園の第一志望に受かったけどやっぱり日本死ね!!!」の投稿も長文だがなかなか含蓄があって面白い。



http://anond.hatelabo.jp/20160218153103










この保育園問題のみならず社会保障のない非正規雇用や若者の奴隷化など子供を生まない原因はこの国には満載しているわけだが、問題はそれのみにとどまらず、私は昨今世間に蔓延する幼児虐待もひとつには日本という国の子育て環境の劣悪が生み落としたものと思っている。

非正規雇用の食うや食わずの若い夫婦が子供を産んだはいいが子供を保育園に入れることも出来ず一人が満足に働けない状態になり、生活に追い詰められれば、その困窮の原因を子供にぶつけるということも当然起こってくる。

日本死ね!!!問題はそういった場面にも波及しているということである。このケースでは日本死ね!!!ではなく「子供死ね!!!」となるわけだ。









さて、2月も終わりみ近づいたが、以前にも書いたようにマスメディア環境が大きく変わる。

これも「日本死ね!!!」問題のひとつである。

以下、ある雑誌に書いた原稿を転載する。






メディア冬の時代。


この四月にはメディアの風景が大きく変わっている。

TBS のNEWS23のキャスター、岸井成格とテレビ朝日のニュースステーションの古舘伊知郎、それにNHKのクローズアップ現代の国谷裕子が軒並み番組を降ろされる。

NEWS23の筑紫哲也時代の流れを汲んだ毎日新聞論説委員の岸井は、とくに安保法制に関し手厳しいコメントを吐き、ニュースステーションの古館もまた原発問題をはじめ政府の政策に対し批判的なコメントを吐いていることは知られているところのものだが、かつて筑紫哲也と話したとき、こういった報道というものは権力批判という基本姿勢を持つのが健全な姿だと彼は語っている。



つまり権力とはただでも強大な力を持つわけだから、その暴走を防ぐためにつねにその監視とチェックを行うのが報道の基本的なあり方だと彼は言う。

そういう意味では件の二局は報道としての矜持を保っていると言えるわけだが、昨今政府の政策に対し批判的な意見を述べるメディアは軒並み偏向報道とみなす空気が生まれ、どこでどのような圧力がかかったかは不明だが結果的にこの三月の大改変となった。



クローズアップ現代の国谷裕子は番組の性格上自らの意見を強く述べるようなことはないが、菅官房長官へのインタビューの際に台本にない追求をしたということで菅側近の怒りを買った経緯がある。



以降国谷降板論が取りざたされるようになったわけだが、往年の大臣ならそういったキャスターの追求など気にしないばかりか敵ながらあっぱれというくらいの懐の深さがあったように思う。



一方、政府は新聞に関しては軽減税率を適用するというかたちで台所事情に苦しい大新聞各紙に対し大盤振る舞いを行ったわけだが、この決定と政府方針に批判的なメディアが姿を消すという同時期に起こったことは表裏一体(飴とムチ)と見るべきだろう。



そしてこの“飴玉”は見事に功を奏し、この“三月粛清”とも言うべきメディアの危機に正面からもの言う大メディアはどこにも見当たらない。



要するに時系列を追って行くと市井の人間には見えないところで巧妙にメディアコントロールがなされているという風景が浮かび上がるわけだが、折しもこの原稿を書いている二日前、言論統制時系列の“仕上げ”でもあるかのように総務大臣の高市早苗は政治的公平性を欠く放送局の電波停止に言及している。




(Cat Walkではもう少し過激なことを書いているが、公開ブログではここまでだろう)

     

 

2016/02/23(Tue)

日本人のポチ化と猫ブームのただならぬ関係についてひと言。(Cat Walkより転載)

NHKで猫が経済を押し上げるというようなニュースが報じられるというのは、よほど昨今の猫ブームはすごいのだろう。

当Catwalkでも猫がアイコンであるわけだが、Catwalkはにわか仕立てではなく、今から15年前、猫?どうなの。という時代からCatwalkの前身CatMelonとして猫をアイコン化していた。

そういう意味では筋金入りの猫であり、時勢に乗った猫とは異なる。

ニュースでは猫を飼う人が増え、反対に犬を飼う人が減っているというこのご時世の傾向を報じていたが、こういったご時世に乗って猫を飼う人が増えているということは日本人が犬化してることの現れとCatwalk号の船長は見る。

つまり平成時代の日本人の特性であるKY(空気を読む)傾向がますます顕著になり、そういった人の顔色ばかりをうかがってKYに絡めとられ日々を過ごしている人々にとってはKMである猫という動物は自分の欠損を埋めてくれるセラピーとして機能するわけだ。

因みに犬の性格はKY(空気を読む)。

猫の性格はKM(空気を無視する)である。

猫ブームが興隆すればするほど日本人が犬化しているという所以である。

さてところでCatwalkの前身でありいち早く猫をシンボル化したCatMelonは当初の予定通り来月末を持って無事終了することとなった。

これは立ち上げ時の2000年のブログで15年間のランニングと公表していることであり、別に何かがあったというわけではない。

ひとつにはサイトはCatwalk一本にしぼり集中したいということもある。

CatMelon当時からのCatwalk乗組員は懐かしいサイトが消え、少し寂しいかも知れないが決めていたことだから致し方ない。

160223.jpg

このクロコほど空気を無視する猫も珍しい。

呼んでも返事をしない。

とうぜんやって来ないばかりか時には反対方向に歩く。

餌をやっても小指の先ほどしか食べず、勝手に何かをどこかで食べている。

抱いても喜ばす、おもむろに立ち去る。

まあ、ちょっと船長に似ていると言えば言えなくもないが。



     

 

2016/02/14(Sun)

「Cat Melon」の終了について。


このたび2000年より運営してまいりました藤原新也の公開サイト「Cat Melon」は2016年3月末日(3月末日まで更新)を持ちまして終了し、会員制サイト「Cat walk」のみに一本化する運びとなりました。

この処置は立ち上げの当初アナウンスしましたように15年間のランニングを目標としていたためです。

なお、過去のブログのアーカイブはしばらくの間そのまま残し、お読みになることは出来ますが、読者アクセスが一定数を切った段階で閉じる可能性もあります。

長い間のご愛読、感謝申し上げます。
ありがとうございました。


                                        Catwalk編集部

     

 

2016/02/05(Fri)

あのときすれ違った清原君に思うこと。(Cat Walkより)

私のマンションからほど遠くないところに居を構えていた清原と一度だけ路上ですれ違ったことがある。
無理して真っ黒に日焼けした顔にホワイトニングした真っ白い歯、そして似合わないピアスが痛々しい感じがした。


その時感じたのは言葉という武器を持たない彼はそのコンプレックスを補うように野球選手時代と同様、身体で自己表現するしか方法がなかったのかも知れないということだ。


一方、永遠のライバルと言われる桑田はテレビのインタビューにまるで用意したかのようにあざといほどの言葉の演出。


「野球では自分の調子が悪ければ代打がいるが野球をやめればピンチヒッターがいるわけではないので自分が自分を支えなければならない。(中略)清原君には逆転満塁ホームランの大きな放物線を描いて立ち直ってほしい」




野球をやめた清原にはこの”言葉の世界”で世間にアピールする術がなく、おおかた失語症の年月を苦しまなければならなかった。

桑田にふたたび決別の意を示したのはいつもこの言葉の落差にジェラシーと焦りを感じていたからかも知れない。


タトゥーや薬物は自分の欠損を補おうとする自慰行為という一面がある。

陥るべくして陥ったとも言える彼の行状が不憫である。

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