Shinya talk

     

 

2015/04/13(Mon)

世界を変えるためではなく(Cat Walkより)。

311につづく福島原発事故のおり飯館村を訪れた私はそこで原発被害を被った村民の部外者(私たち)に対する激しい憎悪の眼差しに接し、戦後はじめてここでは日本同民俗同士の分裂が起こっていると書いた。



その北で起こった民俗の分裂が今沖縄という南においても起こっている。



福島における民俗の分裂は国益優先政策によってそれが棄民政策となった民主党政権の虚偽為政に端を発するわけだが、自民党政権下の今、沖縄でも同様のことが起こっている。



いずれにしても国家というものは国民を守るためにあるのではなく、国家は国家そのものを守るためにあるという、いみじくも太平洋戦争で経験したことの雛形が北と南で展開されているということに過ぎない。



つまり左翼政権であとうと右翼政権であろうと、国家というものの性分に変化をきたすということはないということ。



そういう権力あるいは国家というものの性分、趨勢の中で生き続けなければならないのは日本に限らず、あらゆる国家の歴史に底通することであり、このような人間がなす愚かなアポリア(絶対閉塞)の中においてガンジーの言葉は私たちが生きて行くひとつの指針を示していると言えるだろう。









あなたがすることのほとんどは無意味であるがそれでもしなくてはならない。

そうしたことをするのは世界を変えるためではなく世界によって自分が変えられないようにするためである。









つまり私たちは国家という巨大機構に決して勝つことは出来ない。

それはたとえ(国家というものに隷属している)安倍首相においても同じことだ。

だが「私」が国家によってその意識を変えられない限り、私たちは国家という鵺(ぬえ)に永遠に勝ちつづけるだろう。


     

 

2015/04/04(Sat)

報道ステーションの一件に思うこと。(Cat Walkより)

テレビ業界に異分子粛清の嵐が吹き荒れているようである。



その異分子とは現政権をつつがなく運営する上において都合の悪い知識人やコメンテーターのこと。



というより4月の各テレビ局の番組再編を見てみると異分子のみならず右寄りの人も含め、何か一家言を持ってものを言う、つまり右であれ左であれ波風を立てる恐れのあるタレントやコメンテーターも一律に消され、軒並み人畜無害なコメンテーターばかりが雁首を並べはじめている。



粛清というようなドラスティックな言葉を適用すべきかどうかは別として、降板したことに変わりはないコメンテーターの中には先のトークで川崎の事件報道の際、被害中学生をさん付けで呼ぶことの無責任に言及したテリー伊藤や、バリバリの右寄り発言で知られる勝谷誠彦(本人は降ろされたのではないと言っているが)も含まれるが、このような右的人間も降板させられるというのは一見分かりにくいようだが、分かりにくくはない。



それはそのようなコメンテーターの発言がその反動として左的な論調を引き出してしまうということにおいて人畜無害を指向する今日的テレビにおいては居ない方がよろしいということである。



その消された象徴的存在がテレビ朝日の「報道ステーション」でコメンテーターをやっていた元経済産業省官僚の古賀茂明だが、その降板騒ぎのあった数日後に古賀と親しい Hに電話を入れた。

彼は降板騒ぎのあった日から数日は古賀といっしょだったらしい。



Hは電話の向こうで情けないと言っていた。



彼が情けないと感じているのは江川紹子やニュースウイーク編集長の竹田圭吾や有田芳生などひごろ安倍政権と距離をとっている人間もこのたびの古賀の言動に異を唱えていることらしい。



その異を唱える根拠はふたつある。



古賀がテレビの生放送内でテレビ朝日の早河会長が菅義偉官房長官や官邸の意向に沿って自分が降ろされたと発言したことに確たる裏付けがなく、そういった軽率な行動はかえって敵に塩を送ることになる。



私憤を公器をつかって晴らすべきではない。



の二点である。



確かにあそこまでカミングアウトするのであれば、アナウンサーの古館の横やりに途中で発言を控えるのではなく、生放送なのだからそのまま確たる証拠を提示するという覚悟と用意周到さが必要だが、それがなかったことは”弱かった”と言わざるを得ない。



だがこの古賀の発言を”私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。

なぜなら私はあれは公憤に見えたからである。



かりにひとりの表現者(コメンテーター)が公器の中で歯に衣着せぬ発言をし、それが現政権の怒りを買い(かつて安倍とメシを食った早河)のトップダウンで彼が降板させられたとするなら、それは表現の自由という自由主義社会の根幹を揺るがす出来事であり、かりにその矢面に彼が立ったことでそれを江川らが私憤と片付けることは自らの首を絞めることになるからである。



ということはそれが私憤ではないと証明する意味においても古賀は自分の発言の根拠を示す必要があるということだ。





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