Shinya talk

     

 

2015/02/26(Thu)

戦後ニッポンの責任放棄な大人丸出し、めでたく現在進行形。(Cat Walkより)

先日のことだが、私の四国の知り合いが開いている焼き肉料理店で食事会があった。



そのおり30代のNHKの女性ディレクターが私のとなりに座ったのだが、食事半ばで社の方針の変化に不満を述べはじめた。



幼児や年少者のからむ事件に触れる記事を書くおり、社内では管理職が最近名前のあとに君とかちゃんとか付けるのをやめ「さん」づけにしたいという方針を示しはじめたというのである。



「幼稚園児や小学校低年齢の子をさん付けにするのはヘンと思いません?」



もちろん私はそれはヘンだと答えた。



というよりそれに関連して私が思い出したのはゆとり教育のことである。



ゆとり教育の真骨頂はあの運動会などでかけっこがあっても勝ち負けを決めないという人間の本能を無視した”異様”な取り決めがすぐに思い出される。



つまりこの取り決めは差別を無くしてみな平等にという”理念”が過剰に働いた結果、ヒト個人に備わった個性や本能をネグレクトしてしまう、という教育が”反教育”になってしまったという笑うに笑えない”バカ教育”であるわけだが、かりにそれを日教組が主導したとするなら戦後左翼というもののひ弱さ極まれる話ではある。



年少者を君やちゃん付けではなく、さん付けで呼びましょう、というこのマスコミの大人の意識はどこかこれと似通った臭いがある。



君、とかちゃん、とか上から目線ではなく、同じ”高さ”の目線で子供と接しましょうというヘンな意識がその言葉に結びついたのであろうが、畢竟(ひっきょう)大人と児童では背の高さが何十センチも違うわけであり、同じ目線にはなり得ないし、同じ目線でというのは運動会に勝ち負けをつけない、と同じく気持ちの悪いまやかしである。



というより大人は子供の何倍も人生経験を積んでいるのだから上から目線でなくてはならない。

だからこれまで日本の歴史では子供を君やちゃん付けで呼んで来たのだ。

そして大人の自分より人生の格下として子供を位置づけることは、そこに大人としての自覚と責任も生じるわけだ。



早く言えば、さん付けで児童を呼ぶのは大人の責任放棄に他ならない。





                                ◉





さて、この一週間、川崎で起こった中学生一年、上村遼太君(13)リンチ殺害(これはあきらかにイスラム国の処刑の模倣である)の報道がかまびすしいが、各メデァイの報道を見るとさん付けと君付けが相半ばしている。



安倍の茶坊主、籾井が会長になって以降ここのところNHKは日和見路線に変更しているが、このさん付けの代表格が国営放送のNHKであり、NHKではすべて遼太君をさん付けで呼んでいて気持ちが悪い。



つぶさに検証する暇人ではないので私が見た範囲内だが、テレビ朝日では君、日本テレビの朝の「スッキリ」という番組ではみな申し合わせたようにさん付け。



何かと一家言ありそうなテリー伊藤というタレントも大人の責任を放棄してさん付け。

朝日新聞の紙の方では最初は君と呼んでいたと思うが、今日の夕刊とデジタルと見るととうとうさん付けで呼ぶようになっている。



他のメデイアは乗組員各自で検証していただく。



私はこの言葉の問題、就中名前の呼び方というのは大人が自分の本分を守り子供が自分を子供として自覚する上において非常に大切なことだと思っている。



というより言葉は身体であり人間や社会の行動基準を作るということから言えば、おめえら勝手に君をさん付けにして社会の規範をみ出すんじゃねぇ!と船長は遼太君を殺した野郎より遼太君を遼太さんにしてしまって社会の規範を乱す大人の側に怒り心頭なのである。



というよりコイツらのような責任放棄世代が陰惨な事件を生み出す青少年を生み出していると言えなくもないのである。



私はこの夏から朝日新聞で十回のインタビューを受けることになっているが、その担当の編集委員にさっそくこの問題を突っ込んでみようと思っている。



この一件は小さなことで誰も気づいていないが、あのゆとり教育を生み出して無気力な青少年を大量生産した戦後ニッポンのアホな大人丸出しの極めて重要な問題なのである。


     

 

2015/02/10(Tue)

目をつぶったころ、忘れたころがもっともアブナイ、イスラム唱国問題。(Catwalkより)


最近よく思うのはこれは日本人に限ったことではなかろうが、このところますます人間個人が主体性を持って情報の取捨をするのではなく、加速度のついたメディアの情報の興滅取捨に金魚の糞状態になった脳がだらだらと付いていっているというアブナイ時代のことである。



つい数日前まで大騒ぎしていたイスラム問題は、あのくだらない小学生殺人という猟奇の話題に取って代わられ、熱しただけ冷めやすい日本人の真骨頂を見せている昨今ではある。



というよりこのイスラム周辺の問題に関しては事が冷めた時に何が起きているか、何が起きようとしているかを見極めるしぶとい感性が必要だろう。



復習してみるに私は1/27のCatwalkトーク「桃太郎とアラジンの巨人はどちらが強いか。」の中において次のようなことを述べている。





あの200億に日本人はリアリティを感じていないが、この巨人はジューイッシュや華僑と同じくらい交渉術に長けていることを忘れてはならない。



200億は何も安倍首相のイスラム国対策金に合わせた非現実的な要求ではなく、彼らなりの本気(アラジンの魔法)であり詐術だと考えるべきである。

大男総身に知恵が回りかね、ではなくこの巨人結構知恵者なのである。



日本人はそこのところの彼我の感覚の異相を見誤っている。



その金額に当然リアリティを感じないとともに身代金を払うことはアメリカをはじめ有志連合国の国是にも反するわけだから日本は応じない。



イスラム国はそのことは折り込み済みだろう。



だから彼らはとつぜんあっけないほどすみやかにその200億という要求を下げて人質交換に場面を転換したわけだ。



だが彼らイスラム国は依然200億は彼らのリアリティでありそれを温存していることには変わりはない。



彼らがいったん提示した金の問題を交渉の俎上から下ろしたのはつまり国際通念上、公言した金は下りないからである。



今日その熾烈な経験によって金は隠密裏に行き来するものであることを世界の誰よりも心得ているのは彼らイスラム国なのである。



だから彼らはいったん金銭要求を引き下げたのだ。

後藤さんのメッセージの中で「あなたたちはお金を払う必要はない」という文言をわざわざ盛り込んだのは日本の苦悩に配慮して日本が金を払いやすい土壌を耕したということである。



つまり彼らの目算はおそらく人質交換+金だと睨む。



その金銭交渉の際、彼が最初に出して即座にひっこめた魔法のランプの巨人、200億は最初のジャブとして効いて来る。



ポーカーゲームのようにこのブラフ(こけおどし)はなぜかいつの間にか金銭交渉の際の基準になっており、ヨルダンに派遣された中山外相副大臣は「それでは2億円ではどうか」(本当はこの2億でも大きいのだが)とは言い出せないような空気が醸成されてしまっているのである。



鬼の征伐のために派遣された桃太郎、中山外相副大臣が果たしてこの肉食の巨人の詐術に立ち向かうことが出来るか、あの若さとなんとなく草食系の匂う人相ではなかなか難しいというのが船長の観測である。











そしてこのトークの内容を裏打ちするテレビインタビューが先日あった。



私も小保方問題のおりにインタビューを受けたTBSの報道特集である。

ここのところNHKを筆頭にテレビの御用化は甚だしいが唯一がんばっているのはニュースステーションとこの報道特集くらいのもので、先日の番組ではジャーナリストの常岡浩介とともにイスラム唱国 と唯一パイプを持つイスラム法学者の中田考をインタビューしている。



このインタビューはあまり話題になっていないようだが、これまでの一連のイスラム唱国報道の中では非常に重要な位置を占め、今回政府が後藤健二の人質問題でどのように動いていたか(いやまったく放置して動かなかったか)がありありと透けて見えて来るのである。





私が先のトークで指摘したようにイスラム唱国がいったん金の要求を引き下げたのはアンダーテーブルに交渉の場を移すためだったこと。

そして日本政府に200億を請求し、しかも日本政府はそれを無視し続けたこと。



またイスラム唱国のカリフであるバグダディと直接話を出来る重要ポストの人間に中田考がコンタクトできるにも関わらず、もっとも後藤健二救出の有効な手段であった中田ルートを無視し続けたことが明らかになっている。



また報道特集のインタビュアーの(私のインタビュアーも彼だった)日下部正樹はこの中田考のインタビューであきらかになったネタを持った上で外務大臣の岸田文雄に質問をぶつけているが、その折の岸田のうろたえぶりと支離滅裂な逃げ口上も見ものである。



つまり内心そうではないかと勘ぐっていた「後藤健二救出に政府は本腰ではなく、一連の対応は演技でありポースである」という忌まわしい予感がどうやら事実となりつつあるということである。



最近わかったところでは、驚くべきことに政府はイスラム唱国との交渉を中田常岡ルートではなくイスラム唱国とのパイプのまたったくない民間のCTSS Japan株式会社という危機管理会社に交渉を丸投げしているということである。



http://www.ctssjapan.com



そしてこのCTSS Japan株式会社、プレハブ会社も兼業しているらしいからもうわけがわからない。



‪http://bit.ly/1vzzAs2











そのように“そんなバカな”情報ばかり集まってくるイスラム唱国事件以降、日本のマスコミが自分の国の重大問題であるにも関わらずなし崩し的に次の話題にとりかかろうとしている最中、アメリカのニューヨークタイムス(私も四国沖でアメリカ潜水艦とえひめ丸の衝突事件のおりに長いインタビューを受けている)にやっと今回の一連のイスラム唱国問題と政府の対応が何であったかというきわめてシニカル(冷笑的)なカリカチュア(風刺画)が掲載(2月8日付)された。

150210.png

画ではイスラム国をニンジンに馬車に乗った安倍首相が「constitutional revision」の標語のもと憲法改正に向かって走っている。




「constitutional revision」とは「憲法改正」のこと。「テロリストの脅威」で国民を煽り、憲法改正という政治目的を進める手法を、外国は見抜いている。(山崎雅弘氏による情報)





つまりこの風刺画は政府は後藤健二の事件を利用し、危機感をあおって自衛隊の海外派遣はおろか憲法改正のスプリングボードにしょうとしていると語っているわけだ。



その“予感”に関しては2月2日このCatwalkトーク「早くも後藤さんの死に浸って居る場合ではないいくつかの憂うべき兆候。」の中においていち早く警鐘を鳴らしているが、そのトークから1週間後に海外メディアは今回の事件の本質を暴いていることになる。





以下2月2日トークの抜粋。



今後藤さんの死という負のイコンは弥次郎兵衛の均衡状態に置かれている。



私たちが今心して気をつけなければならないことはナチスがそのプロパガンダ活動の中で負のイコンとしてユダヤ人を利用し、また近くは911、つまりツインタワーという負のイコンを時のブッシュ政権が利用し不法にイラクに攻め入り、ISというモンスターを作り上げたように、えてして時代のイコンというものは為政者によって自分の都合のいいように利用されてしまう危険性があるということだ。



そしてその兆候はもうすでに出ているように思える。



今回、後藤さんの殺害関連報道は安倍首相の囲み会見と菅義偉の記者会見のみを見ているが、私は非常に奇異なものを感じた。



これは会見というより一方通行の「声明」あるいは「檄(げき)」または「御触(おふれ)」に近いものであり、そこに国民(記者)との対話は完全に封印されているからだ。



人質問題は後藤さんの死によって収束したにも関わらずある。



いつもは前ふりのあと記者とのやりとりをする官房長官の菅すら一連の声明を出した直後、記者席の方に一瞥もくれず足早に会見場から出て行く。



不思議である。



この案件は一国の国民が殺されたのであり、記者(国民)との問答があってしかるべき重大事項であり、政府の発言が人命にかかわる局面でないにも関わらず、一切の質問を許さない。



このことは何を意味するかと言うと後藤さんの死という負のイコンは扱い方によっては自分に火の粉が降りかかり、逆に扱い方いかんによっては利用価値の高い持ち駒となる可能性があるからだ。

この負のイコンは今、弥次郎兵衛が右に振れるか左に振れるかという微妙な緊張状態にある。












さてここで問題は政府が後藤健二救出を何の力もないプレハブ会社に丸投げして放置していた。
しかし表面では管官房長官や中山外相副大臣が官邸内やヨルダンでいかにも真剣そうに走り回っていた。今となっては妙に演技っぽい。



そういう意味ではイスラム唱国問題はマスメディアが潮を引くようにこの問題から撤退して行こうとする今以降がいちばん重要な局面を迎えつつあるということ。

そしてまたさらには自衛隊の海外派遣や憲法改正のみならず、これに連係して日本に軍事産業を育て、アベノミクス失敗の立て直しの構想も何処やら何やら匂うのである。



     

 

2015/02/02(Mon)

早くも後藤さんの死の衝撃に浸っている場合ではないいくつかの兆候。(Cat Walkより転載)

 


後藤さん個人の命が無辜の民の命より重いのではない。


後藤さん殺害の報のあった31日は新聞テレビなどの無い山中にいたので、断片的にしか今回の事態に対する報道を見ていないが、今回の一連の出来事に関し、まず前提として確認しておかなくてはならないことがある。


それは中東の紛争国で無数の人間が殺されている状況の中で一人の人間の命に大騒ぎするのは不条理だという意見が聞かれることである。


この数値的な発想は今回の案件にはなじまない。


後藤さんの命は緊張関係にある国際政治力学の中において象徴的存在となってしまったから騒がれるのであり、騒がれることが即後藤さんという一個の命が無辜の民の命より重いということではない。


そしてその命は延命されることによってさらに誇大化したわけだ。


そしてさらには沸騰点において殺害されたことによって扱いの難しい負のイコンとなったと言える。


 


今後藤さんの死という負のイコンは弥次郎兵衛の均衡状態に置かれている。


私たちが今心して気をつけなければならないことはナチスがそのプロパガンダ活動の中で負のイコンとしてユダヤ人を利用し、また近くは911、つまりツインタワーという負のイコンを時のブッシュ政権が利用し不法にイラクに攻め入り、ISというモンスターを作り上げたように、えてして時代のイコンというものは為政者によって自分の都合のいいように利用されてしまう危険性があるということだ。


そしてその兆候はもうすでに出ているように思える。


今回、後藤さんの殺害関連報道は安倍首相の囲み会見と菅義偉の記者会見のみを見ているが、私は非常に奇異なものを感じた。


これは会見というより一方通行の「声明」あるいは「檄(げき)」または「御触(おふれ)」に近いものであり、そこに国民(記者)との対話は完全に封印されているからだ。


人質問題は後藤さんの死によって収束したにも関わらずある。


いつもは前ふりのあと記者とのやりとりをする官房長官の菅すら一連の声明を出した直後、記者席の方に一瞥もくれず足早に会見場から出て行く。


不思議である。


この案件は一国の国民が殺されたのであり、記者(国民)との問答があってしかるべき重大事項であり、政府の発言が人命にかかわる局面でないにも関わらず、一切の質問を許さない。


このことは何を意味するかと言うと後藤さんの死という負のイコンは扱い方によっては自分に火の粉が降りかかり、逆に扱い方いかんによっては利用価値の高い持ち駒となる可能性があるからだ。


この負のイコンは今、弥次郎兵衛が右に振れるか左に振れるかという微妙な緊張状態にある。


 


一国の首相が聞く耳を持たないということ。


安倍首相の会見はそのことをよく表していた。


安倍首相のもの言いはいつも落ち着きがないが、この早朝会見はあきらかにいつもにも増して落ち着きがなく、目が泳ぎ、後半の部分で話が途切れ、手元のアンチョコに目を落とし、ふたたび話はじめる際には過呼吸気味に呼吸が乱れ、声も少し震えている。


https://www.youtube.com/watch?v=SmjelQNqlwM


安倍首相の会見(注意深く見る必要がある)


プロの音声分析にかけるまでもなく、安倍首相がここまでの動揺を見せているのは単純にお坊ちゃん育ちで自分の名前が名指しされた残酷な殺戮映像のショックがあとを引いているか、あるいは今回の殺戮が自らの中東での一連の挙動が引き起こしたとする責任問題に発展する可能性のある案件であることを過度に警戒していることを表すかどちらかだろう。


いやその両方と言った方が順等かも知れない。


後者の観測が的を得ていると言える場面は会見の立ち去り際に一瞬垣間見える。


一人の記者が立ち去り際に発した「一連の対応に問題はあったとお考えでしょうか」という質問に安倍は一度は記者の方を見るが振り切るように踵を返して立ち去る。


この問答無用キャラは今にはじまったことではない。


先の衆議院選挙時には開票速報時に民放のキャスターを勤めた池上彰さんの質問が厳しさを増したおり、とつぜん首相はイヤホンを外し、一方的に持論をまくしたてた。


前代未聞のことである。


また沖縄新知事の翁長雄志(おながたけし)さんが上京した際、政府は(相手が辺野古埋め立てに反対して当選した知事ということで)異例の対話拒否をしている。


そして今回の緊急問答無用会見である。


早くも負のイコンは 利用されはじめている。


元官僚の評論家、古賀茂明さんは報道ステーションで以下のような発言をした。


今度の人質事件では、いろいろな報道がされていました。でも、必ず最後の方は「テロは許しがたい行為だ」「いまは一致団結して、安倍さんの戦いを支持すべきだ」というところに帰結してしまうんですね。そうなると、あらゆる議論が封じ込まれてしまう。


今は戦前のように治安維持法もないし、特高警察もいませんが、安倍政権のテロとの戦いに異論を挟むのは非国民だ、みたいな雰囲気が醸成されつつある。


この発言は後藤さんの死という負のイコンが弥次郎兵衛のごとく右に振れるか左に振れるかという均衡状態にあるという私の観測と同一線上にあると言え、もっと私たちが警戒しなればならないのは彼の死が政府のプロパガンダとして利用されることに他ならない。


その弥次郎兵衛的均衡関係を表すように今朝の朝刊各紙もイコンの綱引きをしている。


(画像・クリックで拡大)



絶対に許さぬ、という首相の言葉に同調強調(読売新聞)。



テロ許さない、と首相の言葉を客観報道(朝日新聞)。



次ページで政府批判とも受け取れる見出し(朝日新聞)



安倍首相のメッセージを見出しに採用せず。メモを見ている時のうつむきの顔写真を使う(毎日新聞)。



政府声明に加担せず、負の連鎖を強調(東京新聞)。



となりの桜井よしこのコメントとの合わせ技で”政府公報紙”となる(産経新聞)。


つまり今日の新聞各紙の見出しや扱いは今回の事象が左右どちらにも振れやすいイコンであることを如実に表しているわけだが、それがもっとも危険領域に振れた場合がどうなるかという結果がご丁寧にも「自らの力で自らを守る」という櫻井よしこさんのエッセイを並列して載せた極右新聞である産経にもっともよく現れていると言える。


つまり後藤さんの死の衝撃もつかの間、この負のイコンは敷衍して憲法改正という大団円にまで発展(利用される)可能性を秘めているという新たな視点を私たちは持つ必要があるということである。



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