Shinya talk

     

 

2014/12/17(Wed)

私たちの格差社会は中東やインドやパキスタンなどにおける古代から延々と続く絶対格差社会に比べると可愛いものだ。(Catwalkより)

パキスタンのペシャワールで軍の子弟が通う学校が襲われ、大人を含む141人もの多くの子供が命を落としたというこのニュース。



かりにこれがアメリカや西欧先進国の一国で起こったとするなら世界を震撼させる大ニュースとなるわけだが、この日本でもB級扱いのニュースで終わっている。



それよりもオーストラリアで発生したチョコレート店での人質事件の方が報道量が多かったように思う。



人の命の軽重はれっきとしてこの世界にまかり通っているわけだ。











ただし、このパキスタンの惨事のニュースを聞いて、海の外のことに想像力の及ばない島国においてこのニュースになんらかの注釈を付け加えることのできる人はあまり多くないのではなかろうか。



私はこのニュースを聞いて、まず3年前に中国の一地方都市に行った折に見た不思議な光景を思い出した。





通りの店先に手持ち型小型ミサイルからはじまり機関銃まで物騒なものが飾っていたのだ。

とうぜん日本人の感覚ではこれはアーミーショップですべてレプリカと思うはずであり私もそのように思った。



だがそれはれっきとした実装品だったのだ。



店の中には10代から20代のこの店にはふさわしくない遊び人風の若い店員が手持ち無沙汰な感じでぶらぶらとしていた。



色々と聞いてみるとこれは中国の軍の店ということだった。

というよりデモンストレーションの店で、こういった店は中国全土にあるらしい。



管理人は当然その土地の軍の幹部であり、インタビューを申し込んだが、けんもほろろに断られた。



中国軍はこういった暇と金にあかした遊んだような施設をあちこちに持っているが、キャバレーなどの風俗営業も取り仕切っていて莫大な利益を上げている。



日本で言えば自衛隊が全国で風俗営業を展開しているようなものだから、世界というものは日本人的感覚を尺度としては推し量れないとんでもないことが方々起こっているわけである。











ということで今回のペシャワールの事件になるわけだが、この中国の例がそうであるように、発展途上国においては軍というのは強大な権力機構であり、時には国家政治機構より大きな権力を持つ。

そしてその強大な権力は多くの汚職を生み、私の知るかぎり発展途上国家の多くの軍は腐敗の巣窟であり、これはアフガニスタンにおいても例外ではない。



そういった巨大な権力機構の子弟の通う学校というのはまさにエリート中のエリートであり、このたびはそういったスクールが襲われたということだ。



ペシャワールには二度入っているが、町を歩いていてもこういった土地というのは歴史的絶対的な格差社会であるということが肌で感じられる。



ひるがえって今回軍の学校を襲ったテロリストであるパキスタン・タリバーンの多くの兵士はこの絶対的格差社会における最下層の出身が多い。



日本ではイスラム圏で起こっているさまざまな事件や紛争を宗教的観点からしか報道されない傾向にある。

もちろんそれは殺人にエクスキューズを与えるものではないが、今回の件も含め、こういった事件や紛争を中世や古代から延々として続いている絶対格差社会におけるひずみが情報化社会において覚醒され、顕在化したという視点も持つべきなのである。


     

 

2014/12/15(Mon)

痛快である。(Catwalkより)

自公大勝大勝と沸き立っているが、大勝でも何でもなく、先のトークで空気選挙と言ったように空気がノンベンダラリと微動しただけの話。



それも選挙前は各マスコミは自民だけで300議席と予測していたが結果は逆に公示前の293議席から2議席落として291議席になっているわけだから大勝ではなく微後退である。



その分公明が+4議席で穴を埋めたというだけの話。



しかしこの何も動かないまったり感は何だ。



空気の微動というより国会内で空気が腐ったようにどんよりと澱んでいると言った方がいいだろう。



野党もしかりである。



マージャンのパイが各野党間でこれもだらだらと動いただけの話。



摺り足歩行の石原(引退)と目やにの目立つ平沼の率いる次世代の党の”次世”とは私は”あの世”と思っており、早晩なくなるだとうと予測していたら案の定19議席が17議席減らし2議席とどうやら本当にあの世に行った。

これはよしとする。

そしてその浮遊霊となった17議席が野党間に取り憑いただけの話である。



共産の倍増は安倍独裁批判票だろう。

それはよしとする。













それにしても、私は前々から安倍晋三というのはずる賢い男だと思っていた。

11年前に小泉が北朝鮮の拉致被害者交渉に行ったおり、安倍は実務を手がけたが、このとき北は拉致被害者を帰すと言っておらず第三国(東南アジア)で家族と合わせるという合意をした。

だが安倍はこの合意を反古にし、出国したからにはこっちの勝ちとばかりアジア経由で5人の拉致被害者を帰国させ、これがいかにも”手腕”であるかのごとくとうとうと手柄話をしていた。



確かに拉致被害者は不法に拉致されたのだから合意を破って帰国させてもいいという考えも成り立つが、その時、安倍自らがしゃべる手柄話を聞きながら、相手が無法国家であれば約束を破ってもいいのかと割り切れないものを感じ、その時以来、この安倍という男の目を見るようになった。



テレビに映る安倍の目は今でもときおり狡猾な視線を走らせる。



今回のだまし討ちのような解散劇はまさにそういう意味では狡猾な目を持った安倍の真骨頂ということが出来るだとう。













どんよりと澱んで動かない空気。

ずる賢い国家元首。



胸の悪くなるような選挙ではあったが、マスコミがなぜか触らない画期的で大きなムーブメントが起こりつつあることを私たちは見落としている。



それは沖縄の”治外法権化”とも言うべき動きである。



先の沖縄知事選以降、沖縄は何かを決断したかのようにひとつの独立した船のごとく大きく面舵を切った。



そして今回、自民は全4選挙区で負けるという歴史上かつてないことが起こった。



沖縄の人々にとって現政権の自民が国家であり権力であるとするなら、沖縄は今回の選挙において反権力、反国家の体制を確立したということだ。



日本の中でこういう治外法権地域が生まれたということは大変なことなわけだが”本土”のメディアは戦後政治がそうであるようにこの場に及んでも沖縄軽視の感覚が抜けきれないようだ。



私たちは本土の空気が腐ったようにどんよりと澱んでいるこの忌むべき時代の中、南の島の空気だけは大きな竜巻を起こしたということを銘記すべきである。


その意味において「この道しかない」は沖縄の檄文。

私にとって今回の選挙は劇的に痛快なのである。

     

 

2014/12/09(Tue)

ものみな盲目の世の中において正論は惨敗を見るを理(ことわり)とするかのごとき天地真逆の世の中で。(Cat Walkより)


時代の潮目というものは時に残酷なまでにくっきりとした断層を描くものである。



高倉健(享年83)に数日を置いての菅原文太(享年81)の訃報。



二人は典型的な”日本の男”を演じた。



この時代の男はすでに草食系男子という言葉が生まれるほどやさ男が主流。



女のように化粧をするのは当たり前。



以前、綾野剛の人間ドキュメントの番組に出た時、私たちはマリーナの船上で会ったのだが、船で作業をしながら待っていると彼は黒い日よけ傘をさしてスタッフとともにやって来た。

対談のおり、近くで見るとその肌には日焼け止めクリームがびっしりと塗り込められていた。



彼とは何度も会っているが、何か変わったなと感じた。



かつて男というものはトラック野郎を演じた菅原文太のように脂ぎった黒い肌が格好良かった。



だが昨今、男は女のように白い”お肌”が主流らしい。



まあそれはそのどちらが良い悪いと裁量すべきものではないと思うが、その肌の色ひとつとっても時代の潮目が変わったということだろう。













それでは、その日本の典型的な男を演じた二人の任侠肌の男が本当に男らしかったかどうか。



私たちは男を演じる彼らの虚像を見ていたのであり、実際に本人が男らしかったかどうかは薮の中である。



だが私には少し彼らの実像と袖振り合う場面がなかったわけではない。



ある日、高倉健と共演した女優と食事をしながら話していたおり、彼女は思っても見ないことを言った。



健さんは酔うと下ねたの話ばかりした、というのである。

男のように気っ風のよい彼女の言い方の中に”下ねたを得意がって話す男の女々しさ”という感触が感じられた。



それは人を介しての実像だが、なぜか私個人はその話が妙に腑に落ちた。



それはなぜだかわからない。



なんとなくなのだ。











菅原文太の実像に関しては高倉健よりも信憑性のある感想を持つことが出来る。

4年前、私は彼と会っている。



確かTBSだったか彼は長年本をテーマとしたラジオの対談番組を持っていてその番組のオファーを受けたのである。

私が当時出していた『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』をテーマとするということで、あの無骨とも感じられる菅原文太がこのささやかな人情の機微を描いた本をどのように評するのか興味を抱いたこともあり、出かけて行った。



収録室は体育館のように広いところの隅っこという変わったシチュエーションということだけを鮮明に覚えているが、なぜか彼との話の内容をよく覚えていない。



覚えているのは彼が収録の終わりの方で私に苦言とも受け取れる(決していやな言い方ではないが)注文をつけたということである。



驚くべきことに彼は私が80年代に出した『東京漂流』に言及し、あの本から今度の本を読むと藤原は社会から身を引いたのかのように思え、それが寂しい、というような意味のことを言った。



私は彼がそのような論評をすることに驚くとともに、この人はただの俳優とは違うなと思った。













その一件が示すように、福島第一原発事故以降、晩年の菅原文太は身を呈して社会にコミットした。



都知事選にも反原発候補を応援し、辛酸をなめた。

また先の福島県知事選にも反原発候補を応援し、ここでも辛酸をなめた。



そしてすでに体の変調を感じながら「弾はもう一発残っとるでよ」の言葉とともに沖縄知事選に馳せ参じ、ここでは過去の辛酸を打ち消す成果をおさめた。



私は彼の実像とじかに接し、晩年の行動を見るにつけ、やはり彼は”男”だったとの思いを新たにする。



虚像と実像の間にズレがないのである。

そして晩年は忘我利他(われを忘れ他の利を思う)に徹した人だったとも思う。

つまり憂国の情に突き動かされた彼はやはり古き良き任侠の人だったと思うのである。



そしてその死の直前に沖縄戦で彼の撃った一発の弾が的に命中したことは、救いだった。



このものみな盲目の世の中において正論は惨敗を見るを理(ことわり)とするかのごとき天地真逆の世の中である。



惨敗に惨敗を重ね、日の目を見る見ることなく国を憂いたまま彼が逝ったとするならこれほど哀しいことはなかった。



おめでとうと言いながら、ご冥福を心からお祈りする。



     

 

2014/12/02(Tue)

下手でもいい、自分らしい、その人の生き方の見える言葉や字(書)を書く人が早く出て来ないと日本は本当に危ない。(CatWalkより転載)

争点大アリの香港抗争から日本に帰ってくると安倍の党略からはじまった”争点まるナシ”の気の抜けた”空気選挙”がはじまろうとしている。


こうした争点のない”燃えない選挙”でかえって浮き彫りとなって見えて来るものは与野党それぞれの党首の人間としての器である。


面白いことにまがりなりにも争点のある選挙では、それぞれの言葉にもそれなりの熱がこもり、一見それがその人間の人格や器のように見えるものだが、争点のない選挙ではこの人たち、発言内容がないから中身が空っぽのただの『紙風船』のように見えるから不思議である。


今日の日本記者クラブ主催の党首討論会で居並んだ会見でもそれぞれの党首の言葉は口からただのパクパクと空気が出ているとしか思えない。


そんな場面が見えると、本当はこの人たち政治的大義名分がなくなってしまったら意外に人間としては空っぽなのではなかろうか、と思ってしまうのである。


民主党の海江田はもともと紙風船のような男なのでその書はどうでもよろしいが、討論会で掲げた日本国総理大臣の書と言葉が怖いくらい空っぽ。


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コラムニストの小田嶋隆さんが以前、安倍首相から田中英寿やEXILEまで「夢」「勇気」「仲間」「絆」「寄り添う」など何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉が、政治やビジネス、ネット、J-POP界隈に蔓延して日本にポエム化現象が起きていると指摘しているが、今日の安倍首相の掲げたカンペは自らが無内容なポエム人間であることを宣言してる。


http://toyokeizai.net/articles/-/38824


以前彼が首相になった折も「美しい日本」というこれも無内容なポエムを掲げてこの人の空っぽぶりをあからさまにしたのだが、その後病気を克服し再度首相になってアベノミクスという何やら意味ありげな経済造語(多分ブレーンが作ったのだろう)を掲げたのを見て、この数年の苦渋の中でそれなりに大人になったのかも知れぬ、と思っていたらまた今日の無内容なポエムである。


どうやらこの人ぜんぜん「ポエム人間」から脱していなかったらしい。


さらにはこの字(書)がもう目が当てられない。


まさにお習字の見本字の上をなぞったような字であり、この人が自分の意思で道を切り開いた人物ではないことを、この書は如実に現している。


さらにいけないのは自からの無個性をなんとか取り繕おうとするためか”無”だけをヘンな略字で書いていることである。


書の世界ではひとつの句に略字を採用する場合、そのすべてに通底する筋目が必要で、無を略字で書くなら”道”も略字でないとアンバランスである。この書を見る限りこの人の心技体もバラバラとしか思えず、こういう人が日本を牽引するのかと思うと空恐ろしい書ではある。


この空っぽの言葉と書を見てつくづく思うのは下手でもいい、自分らしい、その人の生き方の見える言葉や字(書)を書く人が早く出て来ないと日本は本当に危ないということである。


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