Shinya talk

     

 

2014/08/27(Wed)

言葉の言い換えによる現実乖離が危機を増幅するという一例としての広島土砂災害。(Catwalkより転載)

広島市の土砂災害は甚大な人的被害を生んだが、この件に関してはコメントする必要性を感じなかった。



それは天災であり、速やかに救助の手を差し伸べる以外、いくら報道合戦が行われようと自体が好転するわけでもなく、昨今の報道は不幸に陥った人をさらし者にしている感さえある。

それは識者のコメントにも言えることで、こういったものに評論を加えることはただ虚しいだけだ。



しかし今日この欄でコメントを加えるつもりになったのはこの土砂災害が起こった八木地区がかつて「八木蛇落地悪谷」(やぎじゃらくじあしだに)という名の土地であることが判明したということを知ったからだ。



つまり昔の人はこの土地が”悪谷”として住むに危ない土地であると命名しているわけだ。

このような”警鐘名”とも呼ぶべき地名はまだ日本各所に残っていて、私の住む房総半島にも大崩(おおくずれ)小崩(こくずれ)などいう、つまりかつて土砂災害を生んだことを示す警鐘土地名が居残っている。





今回大災害になった「八木蛇落地悪谷」はその後「八木上楽地芦谷」(やぎじょうらくじあしや)と改名されさらに現在の八木となったとある。



つまりこの当て字を見ると「蛇(じょう)」が「上(じょう)」となり「落」が「楽」となり「悪(あし)」が「芦」と改名されていることがわかる。

芦は”よし”とも読むから悪(あし)の反対の意味の(よし)としたとも受け取れる。



つまりそれらの漢字の当て字を見ると縁起の悪い文字をことごとく縁起の良い当て字に変えているわけである。



こういった名称の”無害化’がいつごろ行われたかは分からないが、ここにはとくに平成時代になって以降、差別用語にも言えることだが、ネガティブな言葉や名称をポジティブな言葉や名称に言い換えるという、言葉による無害化の氾濫の一環がうかがえる。



つまり言葉の言い換えによってネガティブな現実を遠ざけるという一種の言葉による現実乖離である。



職安をハローワーク、売春施設をソープランド、あるいは少女買春を援助交際などと呼ぶのはその典型である。この言葉の言い換えによって現実を無害なものにする傾向はオウム真理教の殺人にポアという言葉を当て込む犯罪場面にも適用される。



いわゆる平成という時代には明るさへの強迫観念のようなものが底流に流れており(ということは時代が暗いということの裏返しでもあるわけだが)その強迫観念が暗い言葉、危ない言葉を追放し、無害なものに言い換えるという”言葉の病気”とも言うべき現象が氾濫していると言える。



だが言葉を言い換えてもその現実が一向になくなるわけではない。



まったく同じ現実がそこにあるわけだ。

というよりむしろその現実と等価な言葉を失ったがゆえに、現実認知手段や能力を失うという危ないことが起きてしまう。



昨今さまざまな事件の中においてもこの現実乖離が起こっており、それは言葉を失った人間の現実乖離的行動と言うことも出来るわけだ。



私があえて今回の広島の土砂災害に触れるべきだと思ったのは、この一地方においても言葉の言い換えによる現実乖離という同じ現象が起こっているということをその地名の変遷によって知ったからである。



つまり、そういう観点から今回の広島市の土砂災害は天災ではなくあきらかに人災の側面を持っているということである。

     

 

2014/08/21(Thu)

こんな暗い世相の真夜中に宝石のごとく輝く命のレジスタンスを見よ。(Catwalkより)

今年の夏はエンドレスの様相を呈しているようだ。



みなさんこの夏をどのように過ごされたかな。



私は浮雲旅をライブで同時進行的にやる試みをしたいということで旅は九月以降にし、この夏は房総で過ごしたのだが、房総ではもう1ヶ月以上も雨という雨が降らず、井戸の水位も下がり、庭の芝生は青息吐息だ。



お盆を過ぎると蝉の鳴き声もほとんどツクツクボウシに変わるものだが、まだアブラゼミが大音響で合唱しており、その合間合間にツクツクボウシの鳴き声が聞こえるという状況である。

そんな中、広島の豪雨。

そして惨事(合掌)。

格差は社会のみならず気象にも生じているようだ。



また世界地図にも格差が生じており、お盆のユーターンラッシュという平和な光景をよそにシリア、イラクでは大量虐殺が起きている。

イスラム国という新たな勢力がクルド人を大量虐殺をしているという情報は画像のない文字(言葉)情報のみであり、その実態はつかめない。

だがシリアやイラクで三つどもえ四つどもえとなった勢力が処刑合戦を繰り返し、その生々しい映像はこの平和な日本のお茶の間においても見ることが出来る。



同じ時間空間の中におけるこの命の格差が信じがたい思いだが、それは広島とのどかな蝉の鳴くこの房総の間にも言えることである。



そして今日昨日の広島の惨事もそうだが、残念ながらこの夏もよいニュースがなかった。











佐世保での少女事件にはじまり、愛媛市営団地での少女虐待(社会のストレスが弱者家族に凝縮し、それがさらに弱者への虐待につながったと見る)、意味不明と言えばタイにおける人身売買の臭う代理出産、また今の渦中にあるイスラム国に拉致された湯川遥菜さんの案件。



湯川遥菜さんの拉致に関してはまだ世間が騒いでいないその直後に映像込みの情報が入って来たのだが、情報提供に以下のメールを返している。



「この青年何歳くらいなの?

護身のためとは言え、ジャーナリストが自動小銃持っている光景というのははじめてだ。
わけわからないということではタイの24歳青年とダブるな。」




第一報では自動小銃を持っているということより、彼の風貌が妙に気になった。

イラクにおける拉致と言えばCatwalkでもインタビューをした安田純平さんや渡辺修考さんのこと、あるいはまたアレッポで狙撃された山本美香さんのことが思い出されるが、湯川遥菜さんの風貌はどうもジャーナリストではないと感じた。



YouTubeで尋問される彼の英語も稚拙だ。

そのうちに田母神俊雄さんや他の国会議員と握手しているツーショットや軍服姿にサングラスで決め込んでいる妙な写真が出て来て、10年程前まで幕張にあったヒダカヤというエアガンを扱う模型屋のおっさんだったということも判明。



エアガンオタクが実際に実弾を撃ってみたいと熱望するのは想像に難くなく、彼がイラクで本物の銃を撃って得意げに動画にアップしている様子を見ると、タイの青年もそうだが(その行動が人身売買ではなく自分の子孫の大繁栄を図っているとすれば)、どうも昨今の青年の自己証明願望はタガが狂っているとしか言いようがない。



それは311以降タガが狂った日本国そのもののひな形のように私には見える。



極論になるが、推論だと断った上で言うなら、湯川遥菜さんは前線の戦闘に参加したのだと私は見ている。

どうやらお調子者の彼は自由シリア軍の青年と意気投合し、イスラム国との戦線に出陣したと私には思われる。

エアガンオタクのバーチャルがリアルと妙に混濁した一瞬だ。



彼はアブ・ムジャヒド(聖戦に参加する者)の称号を自由シリア軍からもらっており、なぜかアレッポの前線に向かうおり、日本のパスポートを置いて行っている。



おそらくそれは仲間に私は日本人ではなくアブ・ムジャヒド(聖戦に参加する者)の意志を見せる行動ではなかったのか。



海外の危険な場所では唯一日本のパスポートが護身の役を果たすことを考えれば、その不可解な行動はそのように考えるなら整合性があると言える。



彼が参戦した仲間は今、イスラム国に捕虜交換を求めているが、音なしだという。

音なしということはもし湯川遥菜さんが生きているとするなら、周辺の日本大使館か日本領事館に対し、身代金の交渉をしている考えるのが順当なところだろう。

湯川遥菜さんは捕虜交換以上の”タマ”なのだ。

そして何事もなく湯川遥菜さんが解放されたとするなら、その解放にかなりの税金が注ぎ込まれたと見るべきだろう。



報道という使命を背負った安田純平さんや渡辺修考さんが拉致された折、日本は自己責任論で沸き立った。

そして政府も動かなかった。



今回もしこのエアガンオタクに税金が注ぎ込まれるとするなら、本末転倒である。

成り行きを注視したい。















しかしまたこの夏は暗い話題のみではなく、自分周辺を見渡せば希望の持てる感動的出会いというものもある。



つい3日前のことだが、房総の山の木で蝉の孵化を見たのである。

抜け殻はこれまでたくさん見ているが孵化の瞬間を見たのははじめてだった。

こんな日本においても生命は健気にも一所懸命生きようとしている。

10年前だったらそれほどの思いはなかっただろうが、このご時世の中ではその真夜中の孵化の様子を眺めながらガンバレガンバレと声援を贈る自分がそこにいたのである。


以下(写真)

     

 

2014/08/06(Wed)

私たちはメディアが殺人を犯すことも出来るというおぞましい出来事をいま目の前にしている。(Catwalkより転載)


本来なら理研の笹井氏の自殺は一面トップ黒ベタタイトルで報道されるべき事案だが、手元にある今日の朝日新聞夕刊はIT関連トレンドがどうのこうのと言ったどうでもいいような記事が一面トップを飾り、笹井氏の自殺報道は一面左下に収まっている。



おそらく各紙も同じようなものだろう。



それはひとつにはWHO(世界保健機構)の報道倫理ガイドラインに基づき、自殺のニュースは大きく扱わない(模倣を危惧するという表向きの理由がある)という不文律をいつのころからか日本のマスメディアも遵守するようになっているからであり、先の新宿アルタ前で集団的自衛権に抗議して焼身自殺した事件がほとんど無視されたのも、そういった報道力学が影響しているものと考えられる。



私はこの”事件”を世間を騒がせたSTAP細胞問題の中心人物の一人が自殺したという単純事実にとどまらない、その背後にあるメディアの流れに目を向けるべきだと考える。











ひょっとしたらこのトークに接しているかもしれず、プライベートな以下のやりとりを公にするのはいくぶん躊躇したが、これは当該者にとって別に恥になることでもないので書かせてもらうと、今から半年前、NHKのディレクターから電話がかかってきた。



はじめて接触する方だった。



番組依頼の話であり、それも私を船頭役としたドキュメンタリーを作りたいというものだった。

数日後にホテルのラウンジでプロデューサーとディレクターに会った。

彼らは拙著『東京漂流』の話を持ち出した。



彼らの言わんとするところは311以降、今の世の中がひどいことになりつつある。

そこでもう一度テレビで”今”を捉えた『東京漂流』をやってもらえないか、ということだった。

論旨はわかるが『東京漂流』は私にとって過去の産物であり、それに拘泥しすぎている話にはいまひとつ私のノリが悪かった。



表現者というものは日々先を歩いているものだ。

藤原は今、時たけなわネット社会の中における実験であるCatwalkを展開している。



ある意味でCatwalkは2000年代の『東京漂流』であり、そういう今現在の藤原を彼らは果たして知っているのだろうか。

ということでCatwalkのことを話したわけだが、彼らは知らなかった。



それは藤原新也に仕事を持ってくるマスメディア人としてはいかがなものか?



私はやや興ざめして、とりあえず、会員になる必要はないが一時的にでも見ることは出来るのだから、まず藤原新也の現在に接してからまた新たに話を持ってきてくださいと言ってその場をお開きにした。











私が今日この仕事依頼の話を持ち出した意味は別のところにある。



私はその時、彼らと話ながら一線で活躍する若い(それも藤原に仕事を依頼しょうとするようなどちらかと言うと異端な)メデイア人にかつてなく大きなストレスが溜まっているということをひしひしと感じた。



これまでの仕事依頼の折には見られない危機感と鬱屈が感じられたのである。

のちにNHKのOBが連名でNHKの危機を訴えたように、NHKをはじめマスメディアは政権による目に見えない統制と抑圧を今まさに体現しはじめている。



いったいメディアに滞留しつつあるこのストレスが今後どのような形で吹き出すのだろう?。



彼らと会ってのち、私はそんな思いとともに家路についた。











そして今日、あの折の危惧が現実のものとなる。



笹井氏の自殺。



私は笹井氏の自殺をそのような視点で捉えるべきだと考える。







解せぬことがある。



スタッフ細胞問題はすでに過去事象であるにも関わらず、この一ヶ月、マスメディアの中でこの問題が不健全な形で炎上している。





◉7月21日の毎日新聞一面で報じた攻撃的な「STAP論文・疑惑のデータ削除」(この件に関しては武田邦彦教授がYouTubeで以下のように発言している)。



https://www.youtube.com/watch?v=SidrlwUGZgw&feature=youtu.be





◉そして7月27日にNHKで放映されたNHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」。



張り込みで発見した小保方晴子を執拗におっかけ回し、トイレに追い詰め怪我を負わせるという、まるで日本版パパラッチもどきの”おっかけ”をれっきとした国営放送のスタッフがやっているというこの異様な風景。



番組では、2012年4月以降、科学誌に3度、論文掲載を拒否されていた小保方氏を「論文執筆の天才とも言われる」笹井氏がサポートし、論文の評価が一変したと解説。



そのうえで、ほぼ2人で論文作成を進めていた当時の2人のメールとして、テレビ画面にメール文面が映される中、内容を男女のナレーターが意味ありげに読み上げる。


まず笹井氏の「東京出張」と題したメールでは、小保方氏に研究状況をうかがう前段部分の「小保方さん、本日なのですが、東京は雪で寒々しております」「小保方さんと、こうして論文準備できるのを、とてもうれしく、楽しく思っており、感謝しています」と男性ナレーターが妙に抑揚あるトーンで読み上げる。

これに返信したとされる小保方氏のメールは「笹井先生、また近いうちにご相談にうかがわせていただけないでしょうか」と弾んだ声で音読され、暗に男女関係の蜜月を匂わせる。





◉朝日新聞に至ってはこれはデジタルだが、小保方晴子が行き場に困ってAKB48に入るという設定のおちゃらけ記事まで書いて笑い者にしている。





報道の常軌を逸し、自らの中に鬱積したストレスをすでに瀕死の状態にある弱いターゲットに向かってぶつけるかのごとくである。



”臭い何か”が糞詰まりのようにメディアの内臓に溜まっている。



追い詰めるべきターゲットは瀕死の小娘ではなく、別のもっと大きな世界にあるはずである。



しかし卑屈にも彼らは自からの鬱憤晴らし報道に血道を上げている。



そして今日、笹井芳樹は首を吊った。



私たちは歪んだメディアが殺人を犯すことも出来るというおぞましい出来事をいま目の前にしている。





合掌











さてCatwalkスタッフと私は明日から夏休みに入る。



今後ますます海(世の中)は荒れるだろう。



船は旅をする。



だが荒れる海ではしっかりと動じないアンカー(錨)を海底の大地に”打つ”ことが遭難を免れる鉄則だ。



船は動く。

しかし動かない。



皆さんも荒れる海にそのような心がけを持ちながら対処してほしいと願うものである。







(アトリエの波写真)



     

 

2014/08/04(Mon)

秘密保護法とは何ら関係もないにもかかわわらず「そして誰も言わなくなった」危ういこと。(Cat Walkより転載)

8年前に『渋谷』という本を出した直後、その本のテーマが母娘密着だったところから、思いのほか10代から20代にかけての女性からの反応が多かった。



本の取材をしたのは10年前のことだから、この母娘密着という家庭内人間関係問題は私にとってすでに古色食んだテーマではある。

しかしだからといってその母娘密着という人間関係問題が収束したというわけではない。

というよりここ数年マスメディアはむしろこの問題を取り上げることが多くなった。

ということは『渋谷』を出した当時はこの問題の潜伏期であり、現在ではそれがさらに一般状況化されつつあるとも考えられるわけである。



そのような経緯から当時は数多くの若い女性からのメールや、時には自分の心情を綴った手紙や、詩などが送られて来た。



中には会って話がしたいと言う人も少なからずいて、私としてもそのひとつひとつに対応するわけにもいかず、そのメールや手紙の内容に引っかかるものがある場合のみ会って話などを聞かせてもらったという経緯がある。



そういった反応が一段落し、静まった約1年の後、ぽつんと私のパソコンに1通のメールが投函された。

20代半ばの女性だった。

文面を読みつつやや身の引き締まるのを覚えた。

そこには事実関係はあからさまには書かれてはなかったが、文面全体の内容からその女性は小学生低学年のおりに実の父親から性行為を強要されていることが想像されたからである。







(一旦アップしましたが、この項は公開サイトには馴染まないと判断し、削除します。19pm)






私がなぜ過去のそのような出来事をここで持ち出したかと言うと、先日起きた佐世保での同級生殺害事件に関する様々なデータを読みながら、この不可解な事件は母娘密着ならぬ父娘密着という観点から俯瞰することによって、そこに一定の整合性が求められると考えたからである。



母娘密着に関しては『渋谷』および以降の状況からそれはすでにスタンダードとなっている家庭内問題だが、その他の家庭内相関関係には当然、母男子密着、父男子密着、そして父娘密着という形態が存在するわけだ。



そしてその関係に性が介在する場合もある。



受験生の男子の性を解放するために母と男子が姦通するということはたまに聞くことだが、この場合子供が被害者であったとしても、本来受動的性格の女性が加害者であるため強制臭が消え”犯罪”の側面が曖昧となる。



だが父と娘の場合は性の形態が異なるため加害的で犯罪的な側面が濃厚となる。



私は件の経験の後(精神科医にも会った)調べたのだが、この父娘の姦通というのは表沙汰にならないだけで、相当数が潜在化したままうやむやになっていることがわかった。



ましてや今日”父”の克己心や自律心が弱まっているこのご時世、こういった密閉された家庭内犯罪は増える傾向にあるのではないかと想像される。



だだし、今回の佐世保の事件の遠因に父娘の姦通を名指すわけではない。



ひとつの思考の方法として当然取り入れられるべきケーススタディであると私は考えるのである。

しかし昨今は人権と個人情報の縛りのきつい時代であり、マスメディアの中においてもアンダーグラウンド的要素のある週刊誌などもこのようなことを臭わす記事は見当たらない。



昨日もいま佐世保で取材中ですが今回の事件のことをどう思うかというある週刊誌記者から電話があったが、最近メディアの情報が画一化しているが、今回の件でもまるで情報統制されてでもいるかのように軒並み同じ論調の記事しか見当たらないとしゃべったところだった。



そのメディア情報の中に今回少女Mの犯罪は母親の死から百か日も経たないうちに父が若い女性と再婚した恨みが引き金になったとの通説がある。

そしてもうひとつの通説の中に、父の再婚ののち、父を金属バットで殴ったというのがある。

私は今回の事件の中で当然のことながら最も注視されている同級生殺害よりこの金属バット事件を重視する。



というのはこれは80年の金属バット両親撲殺事件と同じように、父親の就寝中に金属バットで殴打し、佐世保の場合は頭蓋骨陥没、複数の歯の骨折など、あきらかに殺害を目的とした行為だからである。

たまたま父親が体を鍛えたスポーツ人であり殴打に耐え、防御も出来たから死ななかっただけの話だ。



同級生殺害が大きくクローズアップされていることと、父親への殴打事件は父親が生きていることもあって小さな扱いになっているが、私はこの出来事の方に事件の核となるものを感じるのである。

つまりこの行為が母親への思いのみでなされたとはどうも考えられず、そこにはもっと深淵な父娘の愛憎関係が介在しているのではないかということである。





少女Mの将来の夢は検事になることだったという情報は各週刊誌に軒並み書かれているから、それは信憑性のある事実なのだろう。

だが少女Mの検事になりたい動機が奇態である

一般的には検事や弁護士になりたいという子供がいたとすると”世の中を良くしたい”などという思いが出てくるのが普通だが、少女Mの場合は”検事になって弁護士である父親と戦いたい”というのがその動機である。



暗く内向的にして攻撃的である。



少女Mは文武両道に優れていたらしいが、そのころ彼女が描いていた自画像のデッサン(中三)があり、私は今回の事件の中においてさまざまに出てきた情報の中でこの自画像のデッサン(週刊誌によってはぼかしを入れてるが)は父親金属バット殴打と同じように重要な情報だと考えている。


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この自画像の中には父親は有名弁護士、母親は東大出、高台の一等地に豪邸を構え、ピアノやスキーを習い、父と一緒にスケートの練習に励み国体にも出るというような表の健全性からはまったく考えられない、暗く恨めしい表情が描かれている。



私は幼女殺害事件の宮崎勤の描いた絵を国選弁護人から見せられ、その絵の分析をしたことがあるが、絵というものは隠しようもなくその人の心情が生々しく出る心のカルテと言うべきものである。

少女Mはこの絵を描いた前後に、将来の抱負として検事になり父親と闘いたいと語っている。



そしてその時に使った彼女の人称は”ボク”である。

つまり彼女はこの時点で心の中で性転換を試みているわけだ。



そして高校に入ると彼女の身なりや佇まいはますます”ボク”となって行く。



これもまた個人情報や人権というバリアーがあることによってメディアは口を閉ざしているが、唯一ある週刊誌の情報の中でタクシーの運転手の目撃談として注目すべきものがあった。

それによると土曜日の午後の公園で加害者の少女Mと被害者の人少女がハグをしていたとある。



この一件もそれが事実であるとするなら「自画像」「検事」「バット殴打」とともに今回の事件の核となる重要なアイテムだろう。



後天的な性倒錯というものが父母と関わるなんらかの性的ダメージによって生じるということがあるとするなら、この4つの情報は線で繋がると言えるだろう。



「人を殺してみたかった」



その言葉を素直に受け入れているメデイアやその読者は、その因果性の希薄を持って発達障害や性格異常、つまりこの事件は非常に特殊な環境下の特殊な人格を持った人間の成したことであり、それは自分たちとは彼岸にあるとその身を安全圏に置こうとする。



だがそのベッドで何が起こったかは誰も見たわけではないのだ。



ひょっとするとそこには人間なら誰もが持ちうる愛憎劇が展開されていたかも知れないのである。



そして言っておくが克己心が”溶けている”父が私たちのまわりにごろごろしているということも合わせて記憶しておくべきだろう。

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