Shinya talk

     

 

2014/07/22(Tue)

今日の大局観。(Catwalkより転載)


1914年の第一次世界大戦。



1932年の第二次世界大戦。



これが世界大戦と呼ばれる所以は第一次世界大戦以前は国の国との争いというものが戦争であったものが、はじめて世界のさまざまな国々がその利害関係のや主義の中で同盟を結び、二局化した対立構造の中で世界規模の戦争を起こすところから来ているわけだが、そのような意味において昨今の世界情勢はあたかも第三次世界大戦前夜のような雲行きを見せつつあるように見える。



安倍首相が集団的自衛権賛同を得るため、そして中国のシーレーン包囲網形成の一環としてオーストラリアを訪問していた、ほぼ同時期(7月11日)ロシアのプーチン首相がキューバ、ニカラグアなど中南米の反米国家巡りをしているという図は昨今の世界情勢を露骨に示している象徴的な出来事である。

そしてご承知のように中国はロシアとの東シナ海でにおける合同軍事演習、そして反日の韓国の抱き込みとこちらも露骨である。



集団的自衛権への執念、オーストラリアのみならず、中国包囲網形成のためのアジア諸国の歴訪、露骨なのは日本も同じことである。



つまり四半世紀前のベルリンの壁崩壊以降、社会主義体制が総瓦解したかに見え、ひさしく資本主義体制一局支配の様相を呈していた世界構造は中国の急激な膨張とともに、まるで既視感のようにかつての資本主義国家対社会主義国家の新たな対立構造の様相を見せているように思える。



中国の大膨張とともにまるでゾンビのように”社会主義体制は息を吹き返した”と見るべきだろう。



たった二人の公人の殺害に過ぎないあのサラエボ事件が第一次世界大戦勃発の引き金になったように、何かの不測の出来事によってこういった緊張関係が一機に高まり、人間の意思では抑えようもなく機運だけが膨張していくというのが大戦の本性であるとすれば、この17日のウクライナにおけるマレーシア航空機の撃墜事件は、その機運というものが引き起こした事件とも考えることが出来るだろう。



そして今、この事件はさらなる米露を対立の坩堝の中に投げ入れようとしている。

一方パレスティナにおいてはイスラエルによる無差別虐殺。

撃墜事件(無辜の民の殺害)を非難するアメリカのイスラエルの(無辜の民)虐殺容認。

もうグチャグチャである。

イスラエルの無差別空爆も、マレーシア航空機の撃墜事件同様、見えない糸で繋がるある種の”機運”であるとするなら不気味という他はない。



そして地球の地下を巡るマグマが活動期に入り、至るところで火の手を上げているようにも見えなくもない。



今後の世界情勢を注視する必要がある。



     

 

2014/07/08(Tue)

私個人の考える最大の武力。政治の知性や胆力こそが平和の均衡を維持できるもっとも有効な”武器”であるからこそ私たちは野獣ではなく人間なのである。(Catwalkより)

先の投稿から。



起こすべきアクションの優先順位。

日本列島を守るための最も有効な方法、是非知りたいです。







武力でないものを持って防衛というのはできないのでしょうか?







私の足りない知識では、これから何が起きようとしているのか推測することは出来ませんが、藤原さんには一連の動向はどう映りますか?









先週の集団的自衛権に関する投稿ではいくつかの私に対する問いのようなものが見られるが、私は宗教の教祖でも政治家でもないので的確なお答えができるかどうかはわからないが”気になる一連の動向”がなくもない。



それは昨今、まるで一次、二次の大戦前夜のように国家連携の版図が形作られつつあることだ。



いま安倍首相はオセアニアを訪問しているが、これも中国のシーレーン拡大を警戒しての囲い込み、つまり”仲間作り”であり、先年安倍首相がアジア各国を歴訪したのも中国の囲い込みの色彩が濃い。



反面、中国はロシアとの東シナ海での合同軍事演習、近くは日本を敵視する韓国大統領パク・クネに秋波を送っており、かつての時代のように敵味方の国際地図上の塗り絵が描かれつつある。



不気味である。











私が韓国を訪れた70年代半ばはパク・クネ大統領の父親である朴正熙が大統領であり、日本の教育を受け、元大日本帝国陸軍の将校まで上りつめた朴正熙は日本軍の傀儡と言われていた。



この”日本化”された朴正熙のトラウマというものは消しようがなく、大日本帝国から独立したにもかかわらず韓国の地方のどこに行っても夜の10時ごろには日本の軍歌が聞こえたものである。



つまり白黒テレビ放映の終わりには毎日韓国国旗がはためく画面に合わせ男の合唱が流れるのだが、これが日本軍歌そっくりなのである。

朴正熙のトラウマには消しがたいものがあった。



これは公開のサイトでは書くことは出来ないが、日本軍と朝鮮の橋渡し役である(略)。



つまりパク・クネ大統領はそういった父親の負い目を背負って生まれた大統領であり、彼女が大統領に就任した時、かつての旅の経験から彼女は右か左に大きく振れるのではないかと危惧していた。



つまり父親のように親日になるか、あるいは逆にその負い目を払拭すべく極端な反日になるかということである。



結果は不幸にも後者になったわけであり、彼女が従軍慰安婦問題にことさらこだわったのは私にはその負い目の象徴のように思えた。













私がここでなぜパク・クネ大統領の例題を出したかというと、近年の日本および近隣の国家元首は玉虫色志向からパク・クネ大統領のように単色志向になりつつあるということを指摘したかったわけである。



この単色志向化には個人の問題より出自のトラウマが関わる、いわば”亡霊政治”と言えるもの感じる。





日本においてこの為政の単色化(過激化)は2001年の小泉政権にはじまる。

その前の首相であった森喜朗はいろいろ問題の多い人だったが、いわゆるそれまでの日本の歴代の首相が保持していた玉虫色為政の出来た人だった。



だが小泉政権はご承知のように郵政民営化や自衛隊のイラク派遣が象徴するように、アメリカへの極端な傾倒と二世政治家に濃厚なプライド志向を前面に押し出し、中曽根以降長年途絶えていた靖国参拝によって中韓を敵に回した。



パク・クネ大統領のように一国の首相の出自が為政に反映するという危うい、不健全な国政が行われはじめたのは2000年代に入ったからのことだと思う。



政治的な知性とは個人から離れた懐の深い複眼的思考にあると私は考えているが、2001年の小泉第一次政権以降の首相にはそういった複眼的、あるいは玉虫色的な多面性が失われ、あきらかに単一志向化している。



今日の中日の緊張は2000年代以降のそういった政治の過激な単一化の中に生まれたものであり、特に石原慎太郎の果たした役割は大きかった。



この石原慎太郎はかつてアメリカを罵倒し、中国を蔑視し、ついにはご承知のように尖閣諸島国有化に血道を上げ、寄付を募るに至るわけだが、国有化が都政に出来るわけがない。

やきもきしていたところに歴代もっとも暗愚な首相のひとりと言える野田佳彦がまかり間違って95代首相となり、軟弱な左派政権という汚名を返上する形でなんと尖閣諸島国有化をすんなりと国有化してしまう。



ある時代に排出した愚鈍な為政者が国を動かすことによって国はとんでもない方向に向かうわけだが、これはその事例だと言ってよいだろう。



断っておくが私は尖閣諸島が日本の国土ではないと言っているのではない。

国有化することによって紛争はさらに高まりこそすれ収まることはないということだ。

結果所有者と名乗る男に多大な税金が投入されただけの単に無意味な行動なのである。











世界どこの国に行っても国と国とは国境や海域で接しており、かならずそこには紛争の火種というものがあるわけだが、政治の知恵というものはそこにグレーゾーンという領域を暗黙のうちに設定し、緩衝地帯を作って来たわけである。

というより車のステアリングと同様、そこに緩衝地帯(グレーゾーンという領域)があるからこそ、国と国とは互いのアイデンティティや面子を保持出来たと言っても過言ではないだろう。



「よっしゃ、よっしゃ」のかけ声とともに何が「よっしゃ」かわからぬまま、相手を”グレーゾーンの和”に巻き込んだ田中角栄のような人生経験によって培われた複眼的器量の持ち主が象徴するように、2000年代以前の日本の首相にはこの玉虫色を操る魅力的な個性の持ち主が多かった。



だがこれは国民にとって非常に不幸なことだが、小泉以降、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田、そしてふたたび安倍と、戦後の日本においてこの15年は角栄に見られるような人間力が失せ、首相の単細胞化(あるいは幼児化)が進行している。



めまぐるしい情報の氾濫の中で多くの人が忘れ去っているに違いない、こういった近年の為政のおさらいをなぜここでやったかというと「日本列島を守るための最も有効な方法、是非知りたい」「武力でないものを持って防衛というのはできないのでしょうか?」という投稿の問いに私なりのひとつ示唆を持つためだ。











私は先のトークで集団的自衛権を脱し、単独での自衛をすべきだとの意見を書いている。

しかしそれは軍備最優先という意味ではないのである。



私たちの保持する最大の”武器”とは政治の知性であることは言うまでもない。



政治の知性や胆力、時には巧妙な駆け引きこそが平和の均衡を維持できるもっとも有効な”武器”であるからこそ私たちは野獣ではなく人間なのである。



安倍にはオセアニアではなく、中国に行ってもらいたい。



夫婦手をつないだ出で立ちで、誰もから拍手される場所で”気持ちよくなる”のではなく、誰からも歓迎さえれないもっとも難問を抱えた場所に立ってもらいたい。



それが真の政治家というものだ。



そこから平和ははじまる。



     

 

2014/07/01(Tue)

集団的自衛権に関する個人的見解(Catwalkより転載。注、クローズドサイトCatwalkとオープンサイトのTalkの内容は同じテーマでも、そのサイトの性格上多少異なる場合があります)。



公明党の賛成を得て今日閣議決定されるに集団的自衛権に関してだが、公明党がずっと集団的自衛権に反対し続けていたのは私個人は当初から茶番だと思っていた。



公明党の母体である創価学会は日蓮大聖人の仏法に基づく「平和・文化・教育」 活動を根幹としており、中でも「平和」は創価学会が内外に向けての活動展開のもっとも重要な会是となっており、安倍政権の持ち出す集団的自衛権に簡単に雪崩合意することは出来ない事情がある。



つまり一定の”抵抗”というポースを取る必要があるのだ。



そのポースは国民に向けてではなく、創価学会員に向けてである。

日蓮大聖人の教えにそむくことを簡単に許しては会そのもののデゾンデートル(存在理由)を失い、あわせて創価学会員に申しわけが立たない。



そういう意味では左派系のメディアなどが、集団的自衛権に異議を唱え続けた公明党を頼りにし、持ち上げていたのは滑稽である。

今日はしごを外され、やっと正体を見ただろう。



公明党が集団的自衛権に反対し続けてきたのは”思想”ではなく内部に一定の理解を得るためのネゴシエーション(とりひき)に過ぎない。



政教分離の原則に則って公明党は創価学会とは異なることを常に標榜し、そういった観点からの論調に目くじらを立てるが、これまで選挙があるたびに私の読者であるということを騙って何人もの人(主にオバサン)が押しかけてきて、公明党のこの候補者を応援してくれと言ってきた。

その人たちはみな創価学会員だった(簡単に素性を知れてしまう実にワキの甘い人々だ)。



ということで公明党の茶番がはっきり収まるべきところに収まったというのが集団的自衛権が閣議決定される今日ということになる。





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ところで私はこれまでマスメディアから何度も集団的自衛権に関するコメントを求められている。



近いところでは朝日新聞の「異論」というインタビューコラムがあって、この集団的自衛権に関してのインタビューを求められたのがつい10日前のことだ。



だが私はそのインタビューを断った。



つまりそのコラムのタイトルがそうであるように、最初から集団的自衛権に反対の趣旨を述べてほしいという前提のものだったからだ。

かりに私が集団的自衛権に反対の立場だったとしても、紙面を提供する側が私の思想や思いを最初から決められては困るのである。



特にこういった思想信条に関わることはいかなる誘導尋問もなく、枠組みもなく、白紙の状態で耳を傾けるというのがジャーナリズムというものである。





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「ということですでに紙面上ですでに反対という枠組みが出来ており、その範囲内でしゃべるというのはこれはちょっと違うんじゃないでしょうか。

かりにそこで藤原が集団的自衛権に賛成の意見を述べたとするならどうなるのかな」



「藤原さんは集団的自衛権には賛成なのですか」



「いや反対です。



それは多くの人が標榜しているように憲法第九条や平和を是とする大原則に反するという理由からではありません。



私が集団的自衛権反対するのは、つまり他の国とつるんで自国を守るというのは究極的には破綻をきたすと思っているからです。

それはすでに歴史が証明していることでもある。

もっとわかりやすく言いましょう。



戦争というのはひらったく言えばケンカですね。

それも集団のケンカです。

協定のようなものを結び、他の集団とケンカをする。

勝っているうちはいいが、自分の命が危ない、となったとき、自分を犠牲にしてでもつるんでいる人間を助けますか。

あり得ないことです。

たしかにそれは前近代における同民族同士の義兄弟や任侠世界のような濃い連帯関係の中では起きうる美談かも知れないが、血の異なる他民族同士の間では絶対に起こりえない。

それは確信を持って言えます。



しかし集団的自衛権に反対だからといって、無条件で平和を標榜するのもあまりにものどかだと思っている。



日本人は島国の中でこの七〇年平和に暮らして来ました。



20年前に私が読売新聞の文化面で「平和ボケ」という言葉を使って以降自虐好きの日本人はその言葉を多用するようになりましたが、さらにこの平和ボケは深化していると私は思っている。



私は自分の若い時の人生の半分はこの島国ではなく、身ひとつで外の国に自分を曝して来ました。

そしてショットガンからジャックナイフまで武器は常に携帯していました。

軍備をしていた。

危ないからです。

この平和な日本の国境を出るということは何が起こるかわからない。



日本人のように世の中みな”いい人”ばかりではない。

突然とんでもないヤツが目の前に出てくる。

それが世界というものです。

自分の身は自分で守らねばならない。

それが私の基本的な考えです。



つまり私が集団的自衛権に反対なのは、それが甘いと考えているからです。





断っておきますが、私も平和が大好きで、戦争は大嫌いで、人殺しも大嫌いです。

大嫌いだから、そういうものが避けて通ってくれるとは限らない。

現に争いが嫌いな私のようなものが人様に向けてナイフを抜いたこともあります。

残念ながら世界とはそういうものです」





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これまで集団的自衛権に関することを書かず、インタビューも受けなかったのは右か左かの二者択一で敵対する傾向にあるこの硬直した世の中にあって、マスでそのような言葉が出た場合そういった複雑な思いが誤解される危険性があると思ったからだ。



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