Shinya talk

     

 

2014/06/28(Sat)

?なぜ、トマト投げない(Catwalkより)


ところで千人くらいいたらしい、w杯から帰国した日本選手団に対する出迎えの一団が実に気持ち悪い。



なんで”こころ暖かく”声援を送っているのだ。



なぜ同じく負けて帰国したイタリアチームに対する出迎えの人々のように罵声を浴びせないの。

卵、あるいはトマトを投げてもよろしい。



その日本選手のスーツに血のようにべっとりと流れるトマトのしずくは身を呈した”愛”そのものだからだ。

この生ぬるい心の温かさは愛でもなく、当然怒りでもなく、単なる自己満である。



だから気持ち悪いのだ。



選手も卵を投げられた方が気持ちの整理がつき、すっきりするはずだし、明日への怒りと活力にもなろう。



こういう愛のない自己満ファンがのさばる限り、日本サッカーは永遠にw杯で優勝は出来ない。



今日の空港は”空気という得たいの知れないものを大事にする”平成日本の縮図のようなものだ。



     

 

2014/06/24(Tue)

世間知らずのお坊ちゃんがしたり顔で世間を語りはじめるとロクなことはない。

Catwalkで写真集のラインナップを作成する企画は最初の「死ぬな生きろ」が第一弾だが、二弾目としては「花音女」を考えている。

しかし当初考えていたよりそれなりに骨の折れる仕事ではある。



写真一点一点のスキャンは自分でやる必要はなく、委託すれば済むわけだが、スキャン画像とはあくまでアタリ程度のもので、それを一点一点色調整し、オリジナルに近づける必要があるわけだ。



100点もの写真をひとつずつ色調整するのはなかなかの仕事で、詰めてやるわけではないものの「花音女」には約1週間かかってしまった。



こればっかりは人に任せるわけにはいかないのである。

やっと先ほど夜の10時にすべての作業を終え、技術の木村君に渡した。

木村君の方で、これをウエブ用に編集するわけだが、数が多いのでそう簡単にはいかないだろう。



ということで今回は音楽はナシで自分でページを進んで行く方式にするわけだが、1週間後くらいにはアップ出来るのではないかと思う。

乞うご期待。





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それにしても、ここのところ自民党の石原伸晃の「金目」発言、自民党都議の「産めないのか」発言と”屁(へ)”のような出来事が続いている。



都議の方は先ほど結局トコロテンのように押し出されて会見をしていたが、コイツも伸晃に似た”屁”のようなヤツである。



要するにこういった言葉の”お漏らし”は、小便のお漏らしと同様、身体の弛緩から来るものであり、こいつらはなるべく速やかに総合病院に行って脳と膀胱の検査をしてもらった方がいい。





この親にしてこの子ありとは良く言ったもので、伸晃も親の慎太郎同様”弱者嫌い”で慎太郎は一度も伸晃もほとんど被災地に足を運んだことがない。



幼少期に何かトラウマがあるのか、弱者を見ると虫ずが走るらしい慎太郎が震災地に足を運ばないのは致し方ないとしても、伸晃はまがりなりにも原発被災地担当の環境相である。



にも関わらずこの男は現地で行われる公聴会には一度も出ず、いや現地の人によると一度来たそうだが、ただ形式だけ顔を見せ、さっさと帰ったそうだ。



「石原さーんと呼び止めたんですが、後ろを向いたままチョンと片手を上げてそそくさと出て行ってしまいました。

せっかく被災者の生の言葉を聴く機会があるというのに、ほんとうにもったいないことです」



伸晃の言った「最後は金目」でしょの金目とは「最後は金目的でしょ」という意味だが、現地のことを知ろうともせず、あいつらは金目的だと決め込んでいるこの男はやはり、他者のことをまったく理解しょうともせず、自分本位の誤解を押しつける親の性格そっくりで、今回の屁のような出来事を見るとやはりオヤジを思い出す。



いつだったか、オヤジは知った風な顔をして「(生活に困った若者が泊まる)ネットカフェなんてあんなもんファッションだよ。一日1500円も払ってるんだから、金がなきゃ下町の山谷なんかに行けば300円でも400円でも泊まるところはあるんだから、そこに泊まりゃいい」



と言って台東区の区長がそんな安く泊まれる寄宿は世の中にはないと、コメントしていたが、要するに世間知らずのお坊ちゃんがしたり顔で世間を語りはじめるとロクなことはないという親の行状パターンがあたかも遺伝子のように立ち現れたのが今回の「金目」発言ということになる。



どうやらほとんど行かなかった原発被災地に伸晃は行って、今回の失言を謝るそうだが、これは失言ではなく親由来の家訓のようなものだから謝ったから何が変わると言うような代物ではない。



もし謝罪したいという改悛の気持ちがあるのなら自己保身のための謝罪行脚ではなく、そのまま被災地に居残って被災地の現状を見て回るのが本当の謝罪である。



彼が公聴会に一瞬顔だけを出して、そのまま帰京したあれとまったく同じことが今回の謝罪行脚で繰り返されないか、つまり「金目」ならぬお前の被災地詣では結局「利目」でしょ、という風にならないかどうか私たちは監視する必要があるだろう。

     

 

2014/06/17(Tue)

負けてもハイタッチ”の自己愛撫の健気がやるせない。

日曜日ですから。空騒ぎが悪いとは言いません。その狂態の裏に痛感覚が見えないのです。ヤケ酒でもなく、ただの泥酔のようにしか見えないのです。痛みは酒と結びつくとヤケになりますから。





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W杯に関する掲載不可の投稿の1部分に上記のような記述があるが、しかし私も彼らをクソと書いてはいるが、内心複雑な思いもなくはない。

スポーツバーで10代から20代の気の弱そうな若者が集団に埋没することで自己陶酔が生じ、雄叫びを上げる姿は確かに身も蓋もない泥酔である。



狂信者は大枚2、000万円も投入して握手券入りのCDを買い、おそらく国政選挙に多くが棄権したであろうことは想像に難くない若者が少女選挙に何万人も集結し、雨に濡れながら少女宗教の跡目相続を熱く熱く語るAKB48ファンの単細胞集団ときっちり重なり合う。



こういう若者がアメーバのように分裂増殖することで早晩日本が滅びるのは目に見えてもいる。

かりに中国との戦争が巻き起こったとしても肉弾戦ではあられもなく負けるだろう。



だが私はあのW杯やAKB総選挙の泥酔集団を見るにつけ、平成現代の若者が、戦後かつてなく機構によって激しく搾取される大構造の中(あの蟹工船の時代以上に)に置かれ、かつてのように声すら上げる手段もなく、孤立している姿を二重映しに見る。



企業優遇、労働者搾取のさらなる進化形を突き進む安倍政権の時代において、これらのバカ騒ぎは時の政権とタッグを組んだガス抜きとさえ目に映るのである。



だからせめて勝って彼らの内に溜まる内向したエネルギーを浄化させてやりたかった、……と、このクソガキと思いつつも、とくに生活貧困女子らしい子供らの”負けてもハイタッチ”の自己愛撫の健気がやるせないのだ。

     

 

2014/06/16(Mon)

ドロクバの蹴球は”祈り”である(Catwalkより転載)。

W杯で国中が沸き立っている最中に熊を食いに行く話を書いているのもどうかと思うが、かと言ってW杯にまったく興味がないわけではない。



甥が高校大学とサッカーをやっていた関係でそれなりにサッカーのことは気にはなる。

しかしいつもこういった国際試合というのはどうも居心地が悪い。

日本人なら当然日本を応援するわけだが、私の場合はどうも感覚が異なるからだ。



なぜ日本人だから日本を応援しなければならないか、それが感覚的にピンと来ないのだ。

そういう意味では”日本人失格”なのかも知れない。



こういった感覚が生まれたのは若い頃に日本に居るより海外が長く、いろいろな国を巡っていたせいもあるのかも知れない。

この地球上で日本より肌に合う国というのは数え切れないほどあるのだ。

したがってどうしても国際試合というものになると単眼ではなくつい複眼で見ている自分がいる。



たとえば昨日はコートジボワール戦は前半だけ見て外出したが、前半で本多がコートジボワール側のネットを揺らすと少しがっかりした。



それでどっち着かずで見ていた自分がやはりコートジボワールを応援していたのだということがはっきりしたわけだ。





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コートジボワールは久しく内戦の中にある西アフリカの国である。



昔はフランス領だったが、こういった被植民地国家が独立すると、必ずと言っていいほど箍(タガ)が外れ、宗教対立、民蔵対立と言った内戦が巻き起こる。

コートジボワールもその例に漏れない。



コートジボワールの場合はキリスト教派とイスラム教派の対立だが、多くの国がそうであるように少数派のキリスト教派が優位に立つ。

当然長年殺し合いが続いている。



そんな中、宗教対立を離れ、国家を代表するものとして位置づけられるコートジボワール選手団は内戦終結の悲願をずっと訴えて来た。



今回の試合の後半に出てコートジボワールを勢い付かせたドロクバは06年のドイツ大会本大会出場を決めた時、更衣室で選手全員と生中継のテレビカメラの前にひざまずき、内戦を辞めるよう懇願した。





「コートジボアールの皆さん、北部出身の、南部出身の、中部の、そして西部出身の皆さん。

私たちはこうやってひざまづき皆さんに懇願します。

許しあってください。

コートジボアールほどの偉大な国がいつまでも混乱してるわけにはいけません。

武器を置いて選挙を実施してください。

そうすれば全てがよくなります。」







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かりに対戦国が日本であっても私にはコートジボワールを応援しない理由が見つからない。
そしてコートジボワールのように日本を応援したいという強い動機が見つからない。





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それにしてものちのニュース映像の中で渋谷の繁華街のスポーツバーから出て来た上気した青年がコートジボワールをコートダジュールと言い間違えていたのには閉口した。



おそらくW杯サッカーに熱狂している多くの若者の単眼には他者が見えないのだろう。



W杯とは他者を知る格好の機会なのだが、他者が見えず自分しかないスポーツ観戦などクソである。

     

 

2014/06/06(Fri)

ひきこもりに関しての覚え書き。


Catwalkに新しく出来た実用掲示板で、ひきこもり、に関してのやりとりが続いている。

これに関連することかどうかはわからないが、先日博多に行った際に宗像大社の若い神職のひとりが迎えに来たのだが、彼は2年前から首にヘルニアが出て、近々手術することになると言っていた。

この腰痛だとかヘルニアだとか体の痛みは確かに物理的な体の変調が原因であることも確かだろうが、私の知り合いで福岡の糸島で「身体調整塾」という整体をやっているK君の話によると、体の痛みのかなり多くの場合が心因性によるものだそうだ。
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つまり心の歪みが、体の歪みとなって現れ、痛みを発するという。
そうだとすると、いわゆる心が自らの痛みを体を通して訴えているということになる。

そこで神職を彼に紹介したのだが、その電話の中で彼は思ってもないことを言った。

「患者さんだけでなく、職業柄、僕は整体師の目線でいつも人を見ていますが、心と体に歪みを感じられない人というのは藤原さんくらいのものですよ」

「へーそりゃおかしいな。俺の心はすごく歪みきってると思ってるんだが」

「それでは、その歪みは体のどこかに出ているはずです。どこか体が痛いとか不快だとか言った場所ありますか」

「イヤ、ないなぁ」

「そうでしょ。あるはずがありません。僕から見ればあるはずがない」

「なんか俺、ノーテンキってことかなぁ」

「ハハハ、ある意味でそうかも知れませんね」

と、変なところで電話診断を受けたわけだが、彼の話には納得できる部分もある。

私は70年間生きているが、私の小さいころから比べると自然を含んで日本社会というものはずいぶんいびつに歪んだ。

その社会の最小単位である家族もずいぶん歪んだと思う。
というより、昨今では歪みのない家庭を見つけることの方が難しいのではなかろうか。
その家庭の”生息”する自然や社会が歪んでいるからである。

そういった自然や社会や家庭の輪の中核に心は位置している。
その心にブレが生じるのはある意味で自然なことだ。
そしてこういった世の中ではブレのない心を維持して行くには相当のエネルギーを要する。
でなければ、ある程度鈍感にならざるを得ない。

歪みに対抗する矯正エネルギーも発することが出来ず、さりとて鈍感にもなれず、直裁に、そしてセンシティブに、それをありのままに受け取ってしまう、ある意味でナイーブな心の持ち主は当然その心にダメージを負うことになる。

そんな心の痛みが時には体の歪み(痛み)となり、あるいは時には自から現実を遮蔽してしまう。
そんな後者の自己処遇を”ひきこもり”と解釈してもよろしいのではないかと、そういった世界から最も遠いところで呼吸をしている船長は、想像するのである(間違っていたら謝る)。


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2006年のことだから今から八年前になるが、木村伊兵衛賞の審査で本城直季君を推し、その時のコメントで「ひきこもり的感性」という言葉を使ったことがある。

本城君の写真はヘリコプターに乗って地上の俯瞰写真を撮る。
その際に4×5の大型カメラのアオリを利かせ、目標物以外をぼかす。
この効果によって、地上の現実は何かミニチュアを見ているかのようなパースペクティブを獲得する。

地上はなにごとも”かわゆーい”世界になるのだ。


この本城の写真にはかまびすしいパクリ批判がある。
イタリアの写真家、オリボ・バルビエリも同様の手法で写真を撮っており、オリボがその手法の先人だったためだ。

私はオリボの写真を知らなかったわけではない。
だが本城を推した。
手法は同じだが、その写真の中にある、構造が異なると思ったからだ。
オリボの写真はあくまでイタリア人らしい明るい眼のウィットであり、遊びである。

だが本城の写真には時代の痛みと暗さがある。
そう感じた。
私にはその写真は「現実解離性障害」の現れのように見えたのである。
いや、そのような精神分析用語があるわけではない。

あるのは解離性障害あるいは解離性同一性障害という言葉だが、この解離性障害とは自分が自分から離れ、自分として認識出来ない障害である。

たとえば親の暴力による精神的ダメージを回避するために多重人格を無意識裡に身につけるのも解離性同一障害だと言えるだろう。

私は本城の写真にその解離性障害的なものを感じたのだ。

解離性の前に”現実”という言葉を入れたのは、自分が自分から解離するのではなく”ワタシ”が現実から解離するという意味合いを込めている。

では彼は現実から暴力を受けたか?

そんなことはありえない。
多くの人がそういうだろう。
だが、私はそれはありえると思う。

暴力とはフィジカルダメージを受けるということだが、肉体も精神もこの現実や社会の歪みによって十分に暴力を受けていると私は思う。
たとえば放射能はその典型だ。

それを回避すべく、現実から乖離する。
しかしそこで何かを表現することにおいて彼は真性のひきこもりとはならない。
写真を撮る。
それはエネルギーを発しているわけであり、ギリギリに生きていることだ。
その意味において本城の写真はこの歪んだ世界の中における自己セラピーとなり得ている。

彼の写真はそういう意味で”箱庭療法”に酷似している。
私はそのように思った。


つまりおそらく90年代以降の写真というものは多かれ少なかれ、この種の「ひきこもり的感性」があると私は思っており、それは社会が加速度的に歪んだ証左でもある。

かりにその後、同じく木村伊兵衛賞で推した(ことによって審査員として顰蹙を買った)梅佳代にもこの傾向があると私は見ていた。

この心に痛みを与える歪んだ現実をいかに凌ぐか。

それは現実を無害なものにミニチュア化する本城のような”処世”もあるだろうし、梅佳代のように笑いの瞬間芸で痛感を”飛ばす”という処方もありうるわけだ。

つまり彼女はいわば”明るいひきこもり”なわけだが、世の中そういう視点で眺めるならこの国に住む「にっぽん人」は暗いひきこもり、明るいひきこもり、すべて足し算にすると、真性のひきこもりを含んで大多数の人々に”ひきこもり的感性”というものが備わっている不思議な国だと言える。

と、ノーテンキな船長はそのように思うのである。

油断をすると梅佳代の写真の被写体にならないとも限らないので用心しなければならない。

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