Shinya talk

     

 

2014/01/31(Fri)

都知事選に対する私の見解(Catwalkより転載)



いつだったか、私は小泉元首相が原発推進反対を打ち出したおり、彼の原発に関する考え方には違和感がある、とこのトークで述べている。



その折には理由については触れなかったのだが、ここでそれを明らかにするなら、私が彼の原発論に違和感を持つのはそれがきわめてポリティカル&エコノミカルなものであるということである。



ご承知のように、原発災害というのは市井の人々の生活(のみならず生物全域)を根底から破壊に導くという点において忌避されるべきもの、という大前提が不可欠である。



その災害に直面した人々(&動植物)の悲惨についてはまさに地獄と言える様相を呈し、広島の原爆症がいまだに尾を引いている例からも明らかなように、これから10年20年のスパンで放射能との因果関係すら証明できない疾病がとくに子供の世代に多く顕在化する可能性を秘めてもいる。



そして未来にわたる疾病のみでなく、すでに福島という現場では人間生活を根底から崩壊にみちびくさまざまな出来事がすでに起きてもいる。



そういったヒューマンな観点から原発災害を見つめる、という人間として普通の視点が小泉の原発廃止論にはすっぽりと欠け落ちているのである。



つまり彼の原発廃止論は「コスト論」であり、代替のエネルギー政策を求めることによって新たな産業を作り出し、それを成長戦略に結びつけるという意味においてきわめて「エコノミカル」なものなのである。



確かに原発推進から反対に回ったという意味では大きな転換ではあるが、彼の原発論とは基本的に首相の現役であったころ推し進めた郵政民営化や製造業への派遣労働自由化などの延長線上にある政治マターであると言える。



つまりきわめて”政治家的”発想の原発論と言わざるを得なく、またそれがヒューマニティに依拠した情緒論ではなく、実務論であることによって一定のリアリティを得ているという側面があるわけだ。




しかしまたそれも原発反対論のひとつであることには間違いはない。



そういった原発論をひっさげた小泉が細川護煕を担ぎ出した。



私は細川という人は個人的には存じ上げていないが、佐川の1億円でも簡単に敵の権謀術数に嵌められてしまったことが示しているように政治家には不向きな育ちのよい腹に魂胆のない人だと感じている。










さて、私は原発反対、あるいは段階的消滅を表明する候補者を値踏みする材料として、それでは3.11以降において原発問題に関わらず震災地にどのような関わりを持ってきたかということが非常に重要なことだと思っている。



その意味において細川は植栽の専門家宮脇昭とともに「瓦礫を生かす森の長城プロジェクト」を立ち上げ、瓦礫問題に立ち向かっており、自分の作品も販売して支援活動に使っている。



この「瓦礫を生かす森の長城プロジェクト」とは読んで字のごとし、土に還る瓦礫を選別し、仙台石巻は言うに及ばず、潮かぶりで使い物にならない膨大な表土を混ぜ、高さ22メートル、幅100メートル、南北300キロの森の防波堤を作り、そこに塩害に強いシイ、シダ、カシなどを植樹する(種、苗によって)というきわめて理にかなった復興プロジェクトである。



その土盛りの中の瓦礫は4.7パーセントだが、宮脇によればその瓦礫によって土の中に隙間が出来、エアーレーション効果が生まれ、非常に樹の育ちが良いという。

私は当初震災地でその話を聞いた時、こういった理想というものは得てして瓦礫利権によって潰される可能性があると危惧していたが、確かにそういった抵抗もあるものの、そのプロジェクトは岩沼市の先年希望ヶ丘構想として持続しており、南北10キロではあるがすでに3万本の植樹を終え、年に7〜8万本の植樹がなされる。



震災地に言及するや易し、それではお前はいままで何をやってきたのかという視点で今回の候補を眺めるなら、細川はこのプロジェクトの牽引役をやって来たという点において私は評価をしているのである。



同じ原発反対を標榜する宇都宮は確かに日弁連の代表として過去に福島の学校の年間線量基準の見直しを求める声明を出しているが、私のように現場に日参する者にあっては、どうも震災地の現場では彼の痕跡は見えないという点において細川の後塵を拝しているの感を否めない。



と言って私は宇都宮は得がたい人だとは思っている。

とくにブラック企業などの暗躍による若者の奴隷制度の改善を尽くすにはこの人が適任だと思っている。そういう意味で前回の都知事選には私は宇都宮に一票を投じた。



だが私個人は今回の都知事選は原発ワンイシューという意識が非常に強い。

首都防災や雇用や福祉問題、オリンピック運営などはどのみち誰が知事になっても手をつけざるを得ない問題であり、そのことを選挙政策として敢えて声高に標榜する必要もなかろうと考えているのである。



だがこのたびの都知事選に原発が争点になっていることはある意味で国原発政策を転換させる千載一遇のチャンス(当然即転換とはならないが機運を作り出すという意味において)であり、このチャンスは逃すとある意味で原発異論は氷河期に入らないとも限らない。





それからもう一点、安倍首相のNHKの経営委員や会長選出の関与による露骨な公共放送の私物化政策。
あるいは秘密保護法の諮問会議の座長に読売グループの渡辺恒雄以下自分の子飼いの委員を指名する、などが象徴するように、阿倍の他者の存在を顧みないルール破りは底なしである。

戦後はじめて野党という対抗勢力がほぼ消滅したという異常事態の中において、万能感を得た阿倍は歴代の首相の中においてもっともアンフェアーで危険な首相になりつつあると考えている。



そういった阿倍政権の暴走に何らかの楔(くさび)を打つ意味においても桝添に勝たしてはならないと思っている。

おそらく今回の都知事選に自民党推薦の舛添が勝利をおさめるあかつきにはこの暴走はさらにエスカレートするだろう。



その意味において小泉が反原発を打ち出し、自民党内に不思議なねじれを生じさせ、かつ育ちのよい細川を担ぎ出したことは千載一遇とも言えるチャンスを作り出したとも言える。



先にも述べたようにその小泉の原発論はポリティカルにしてエコノミカルであり、ヒューマンプロジェクトである「瓦礫を生かす森の長城プロジェクト」に関わる細川とは同じ反原発であっても私は別のものだと思っている。

つまりこと原発に関しては両者は「同床異夢」とも言うべき関係だ。



だがそれがかりに同床異夢であったとしても小泉の”夢”を”利用”しない手はないのである。

しかしまた前向きに考えるなら細川のエコヒューマニズム的脱原発論と小泉のコスト論的脱原発論が一体化して、脱原発論としてはそれはより完成形に近いとも言える。

選挙は勝つことがすべてであり、どれだけ票を取ろうと負ければ無意味に等しい。



そういった戦術的な意味において私はこの小泉、細川のタッグに勝ってもらいたいと思うわけだ。



かりに宇都宮に勝ちの目があれば私は宇都宮に投票してもよいと思っているが、どうも宇都宮が大波乱を起こすような機運は感じられない。

しかし宇都宮に勝ちの目が出る機運があれば宇都宮に投票してもいいと思っている。

目的を達成するなら手段を選ばずだ。


今現在の予想では残念ながら舛添が大きくリードしており、ことによると細川は3番手になるかも知れないとの評もある。



だがこの同床異夢コンビは”大化け”する一厘の可能性を秘めていなくはない。



その一厘の大化けに賭けてみたいと思っているというのが1月31現在の私の心境である。






     

 

2014/01/27(Mon)

福島からさらに東京へとはびこる鈍感サバイバルへの覚え書き(Cat Walkより転載)。


一昨日の夕方から福島に一泊、朝には東京に帰るという慌ただしい日程で福島はいわきに行って来た。



福島の子供達の甲状腺検査の件で以前にもトーク(13年9月17日)で触れた福島の「たらちね」代表の鈴木薫さんと「子供を放射能から守るネットワーク」代表の千葉由美さん、それにNHKのディレクターも交え、小さな新年会を持った。



会食の中では福島の学校給食の地産地消問題が出た。



昨今、こういった原発がらみの話はますます福島と東京などそれ以外の地域との温度差というか、情報格差が広がっており、福島において学校給食を地産地消に切り変えることを問題視する市民団体の動きや報道は福島ではなされているが、それ以外の地域では他人事であり、多くは知らないのではなかろうか。



この子供を人身御供にして、まやかしの”安全”の既成事実を積み上げて行こうとする力学は、昨年来加速がついている国→県→市町村などの地方自治体の思惑である「福島にはもう放射能問題は存在しない」かのような風潮をつくり出す象徴でもあるわけだが、福島の公的機関が実情を無視してまでそのような動きに出るのは、当然出費を押さえ込もうとする国の息がかかっていることと、地域産業と地方自治体の利害関係、あるいは福島の人口減少の食い止め、などさまざまな問題や思惑が絡み合ってのことである。



言っておくがセシウム137の半減期が30年であることは今では原発被災国家の日本人の多くが知っているわけだが、まだ福島第一原発事故から3年しか経っていないのである。



かりにあの気休めと膨大な税金の無駄使いの除染作業などがあったとしても、いまだ福島県内のみならず関連被災地の農産物やその周辺海域の海産物はけっして安全とは言えず、そんな中まるで子供をモルモットにしたかのような給食の地産地消化は、きわめて姑息な政治的な動きと為政者の鈍感さの上に成り立っているわけだ。



そしてこの動きが政治的であるのは3・11以前の福島県内の子供の給食の地産率は3〜40パーセントであったにもかかわらず、今それを100パーセントにしょうとしているところにも現れている。

逆に原発事故を利用してさらに地産地消を盛り上げようとしているわけだ。



しかし為政者というものは時にそういうものであり、それ以上の問題は大多数の母親たちの間にちょうど学級の中の生徒間に生じる同調圧力のようなものが生じはじめていることだ。

そのお上の方針になし崩し的に洗脳され、今やこの給食問題に異を唱える母親はマイノリティとして他の母親から白眼視されるような奇妙な差別構造が出来上がりつつあるらしい。



「子供を放射能から守るネットワーク」代表の千葉由美のお子さんは小学生だが、原発問題以降ずっと子供に弁当を持たせて登校させた。

しかしこの給食の地産地消化”運動”に至る過程で、とうとう弁当を持って行く子は彼女の子供たった一人になった。



マスクをしていてさえ、白い眼で見られるというから福島の多く人々はこの3年の原発問題の中でその精神が屈折し、安全よりも鈍感を選ぶことが(精神衛生的)サバイバルとなっているのかとさえ思える、そういう不可思議な住民感覚が生まれているのである。





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被爆地帯の福島でさえ、こういった痛感停止と”鈍感サバイバル”がはびこりつつあるわけだから、この東京で”もう原発問題はなかった”かのような風潮が蔓延するのはある意味で不自然でもなく、今回の東京都知事選において原発問題が大きな争点にならないのもまた自然の理なのかも知れない。

先のトークで細川さんは原発問題に対する都民のスタンスを見誤ると票読みを誤ると言ったのもそのことだ。



そういった警戒を促すトークは各紙の世論調査前に述べたわけだが、ここのところ出はじめたマスコミの調査を見ると案の定、予測した通りの結果が出ている。



つまり平成日本人の愚かさとは見えないものに対する想像力より、目の前に見える餅が先ということであり、原発問題より自分の老後や雇用がさしあたっての”お餅”であるわけだ。



東京が急激な高齢化社会を迎えることと相まって「東京を高齢者対策世界一の都に」という歯の浮いたお題目を掲げる舛添要一が一歩リードしているわけだが、ここから先は藤原船長の毒舌なしには実情に肉薄できないようである。





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この舛添要一という人物、人相から判断するなら彼の人相は前回に取り上げた田母神より格段に悪い。

田母神は自衛隊という閉鎖空間で威張っている間に大脳皮質が劣化し、世間全体が自衛隊と思い込むまで思考が単細胞化しただけの話だが、舛添には澆薄(ぎょうはく)の相つまり自己本位にして冷酷非情の相が色濃く出ており、さらには空音(そらね)の相、つまり虚言癖の相も出ている。

そして澆薄は泥舟となった先の自民党からいち早く逃げ出す保身に現れ、空音は”母親の介護”という局面に現れている。



私の地元の福岡県に帰ると舛添の母親介護のウソは常識となっており、舛添の親族ですら母親の介護を人任せにして、その美味しいところだけを持って行っているということでみな憤慨しているのである。



写真家である私が言うまでもなく、誰が見ても舛添の人相が良いと思う人は稀だろうが”母の介護”という人相にまったく似合わないイメージ(もとは本人がばらまいたものだが)を得たことで、その人相とのミスマッチと相まって「あのひとは冷たそうに見えるが本当は”いいひと”なんだ」と言う刷り込みが定着してしまったわけだ。



”悪相なのに本当はいい人だった”というのは”吉相だが案の定いいだった”人よりずっと好感度が上がるのである。



彼の好感度は無責任な浮衆によって作られるイメージというものがいかにいい加減かという見本のようなものだが、そういった浮衆による根拠のない思い入れが都知事という実権に結びつくということであれば嘘から出た真であり前知事の猪瀬と似たり寄ったりということになる。



そういう意味では情報化社会における今の為政者とはかつての為政者とは異なり、実態を伴わない虚像であり、虚像である方がより多くの票を獲得できると倒錯世界になっているのかも知れない。



次回は細川、小泉、宇都宮に触れる。

     

 

2014/01/20(Mon)

海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」と釣り船の衝突事故から見えて来る人間の視覚の不確かさ。。(Cat Walkより転載)

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先日の瀬戸内海での海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」と釣り船の衝突事故に関してどう思うかと二件ほど投稿をいただいていた。

こういった題材は船や海になじみのない方には興味を覚えないかも知れぬとそのままにしていたが、昨日ひとつの検証写真が発表され、思うところもあり、一応私は”船長”でもあるしやはり見解は述べておこうと思う。

とは言ってもこういった海難事故というものは目撃した者はいず、結論を導き出すのは大変難しく、これはあくまで、これまでにもたらされた少ない情報をもとに長年船の舵をとってきた私個人の推理であるとお断りしておく。

海難事故にかかわらず日ごろ身の回りで起こる何事かを推理する上でこういった頭の体操は役に立つこともあるだろう。

さてこの海難事故に関し、これまでもたらされた情報は上記の写真と釣り船に乗っていた生存者の以下の証言。

「並走して走る釣り船は速度を上げ、大型船を追い抜た。追い抜いたあとに、後ろを振り向くと今度は大型船が速度を上げ近づいて来て、さらに左方向に船首を向け、その結果釣り船と大型船は大型船の後方で衝突した」

もうひとつの情報は輸送艦「おおすみ」の航跡記録の発表である。

航跡記録によると、そこには釣り船の乗組員の証言とまったく異なる航跡が描かれている。

つまり30数キロで航行をしていた輸送艦「おおすみ」は釣り船を視認してから急激に減速し、10数キロまで速度を落としている。

こういった8000トン級の大型船というものはかりに30キロの速度で走っていても停船するまで数キロを要するからスクリューを逆回転させ急ブレーキをかけたということだろう。

つまりこの3つの情報から今回の海難事故に関してどのような推測が成り立つかということだ。

その前に言っておきたいのは以前あった外房の勝浦での漁船と自衛艦の場合でもそうだが、数千トンの大型船とわずか10トン程度の漁船や釣り船の衝突事故は、ほぼ全部と言って過言ではないほど小型船に非があると私は考えている。

ただし前回や今回のように国家事業体である海上自衛艦船が一般船と衝突し、国民が死んだとなるとなかなか小型船側に非があるとは言えないのが実情であり、その意味では自衛艦の乗組員は歯がゆい思いをしているのではなかろうか。

私のこれまでの経験においても今回の釣り船がそうであるというのではないが、横断禁止区域を平気で横断したり、大型船に異常接近したり、酒盛りをしたり、居眠り運転をしたりと最近とくに釣り船やプレジャーボートのマナーが大変悪くなっており、こいつらは果たしてちゃんと勉強して免許をとったのかと疑わせるような航行をしている輩が目立つ時代なのである。

さらに言えばプロである漁船ですら早朝は居眠り運転をしていて一直線にこちらに向って来る者もいる。

そんなバカ船団の中を突っ切らなくてはならない昨今の大型船は非常に神経を尖らせているのが実情なのである。

私も時に大型船の行き来する航路を横切ることもあるが、同じ方向に走るか、あるいは並走して走るのは危険だから、大型船の速度を視認しながらその前を横切るに十分な時間がある場合は横切るし、時間がない場合はその場で停船し、大型船が通り過ぎて約200メートルほど離れてからその航跡を過る。

直後に過ると大型船の引き波は巨大で、普通の波と異なる鋭角波だからそこに突っ込むのは危険なのである。

おおすみのように8000トンもある場合は直後の引き波は2メートルは立つ。

それも自然の波とは異なり急角度の三角波として近づいて来るので、最低でも200メートル後方の方で過らなくてはならない。

しかし巨大な船というのはそれなりに魅力的なもので、近づいて並走しまじまじとその見上げるほどの威容な姿を眺めて楽しむこともある。

しかし、それでも50メートルくらいの距離を取らなくてならない。

何千、何万トンもの大型船は磁石のように吸引力があるからだ。

つまり後尾に立つ引き波もそうだが、大型船の周辺には複雑な水流が生じているのである。

たとえば大型船の前半分には並走する小型船を吸引するのではなく、押し戻す水流が生じ、逆に大型船の後ろ半分においては吸引の水流が発生するのである。

相手の大きさにもよるが、馬力のある小型船なら水流に干渉されてもそれを乗りきる力があるが、一般に大型船の起す水流に干渉されない最短の距離が50メートルくらいと考えたらよい。

ちなみに私は船を2艇所有しており1艇が17フィート、他艇は42フィートだが、17フィートの方はアメリカの海難救助艇にも使われるボストンホエラーという銘柄のもので17フィートにしては普通の倍の100馬力の船外機を付けているために、先に言った二メートルの引き波をも乗りきる力がある。おそらく日本のヤマハのSVRだと転覆するだろう。

さて、今回生き残った釣り人の、並走して走る釣り船は速度を上げ、大型船を追い抜た。追い抜いたあとに、後ろを振り向くと今度は大型船が速度を上げ近づいて来て、さらに左方向に船首を向け、その結果釣り船と大型船は大型船の後方で衝突した、との証言だが、今回明らかになった大型船の航跡記録の30キロ台で航行しており、小型船が接近して来てからは警笛を鳴らすとともに船足を10キロ台に落としている記録とはまったく相反している。

このような矛盾はなぜ起こるのだろうか。

それはひとつには海上には陸地のように自分の動きや位置関係を視認する基準がなく、かりに動く二隻の船がいた場合、二隻の船の相互の速度というものは二隻の船の速度の相関関係でしか認識できないからである。

だから錯覚が起きやすい。

つまり輸送艦「おおすみ」が10数キロ程度の船足で釣り船に近づいたことは確かなわけで、にもかかわらず後方からグングン近づいて来たように見えたとするなら、その釣り船はエンジンを吹かしているにも関わらずほとんど停船に近い状態であった公算が大きいのである。

ましてや操縦者は速度メーターを視認する立場にあり、自船の速度は数値で認識できるが、同乗者は感覚がたよりである。

その証言が錯覚ではないかというひとつの推測が成り立つのが、上に取り上げた写真である。

釣り船を陸に揚げたところ、スクリュー(ペラ)が上を向いていた。

ごくたまにこういうことは起こりうる。

つまりかなりの速度で海上を走っていて、流木などの視認を怠り、その上を走った場合(流木はその90パーセントが水面から隠れているので、視認が難しいが、しっかり前を見張っていれば見つけるのはそんなに難しくはない)、スクリューに激突する。

こういった場合シャフト(スクリューの心棒)が破損しないようにするため一定の力が働くとスクリューは上向きにベント(折れる)する仕組みになっている。

シャフトが破損するとそこから船内に水が入り沈没する危険性がありそれを回避するためだ。

写真を見ると写真を撮った人は立った目線で写真を撮っている。

その目線の高さはほぼ赤い船底塗料の横線と考えて良いだろう。

その視線と船底の横線を結ぶ直線を基準とすると、かりにこのスクリューを横から見た場合60度くらいの上向きの角度となっている。

このスクリューの角度というのは船の姿勢に大きく干渉する。

かりに船外機(外付けのエンジンとスクリュー)の場合、走りはじめにあっては水の抵抗を少なくするために船首を上げることが多い。

その船首を揚げるにはスクリューを上向きにする必要がある。

つまり上向きのスクリューは上部に水の抵抗をつくり出すから、当然その反対側の船首は持ち上がるわけだ。

逆にスクリューを下向きにすると、船首は下がる。

そういう船とスクリューの慣性を利用し、走りはじめには船首を上げ水の抵抗を最小限にし、速度が出て来てから(プレーニングに入るという)スクリューをもとの位置に戻し、船首を下げる。

しかしいくら船首を上げたいからと言って、釣り船の写真のように極端な角度でスクリューを上げることはあり得ない。

かりにこの角度のスクリューでエンジンを吹かした場合、船首が極端に持ち上がって(つまり船が立って)不安定で危険な状態となる。

しかし、釣り船の乗組員の証言から推測出来るのは、この状態で釣り船はエンジンを最大に吹かした可能性があるということだ。

大型船の警笛が5回も鳴った。

後ろを見ると大型船が近づいて来る。

釣り船はエンジンを全開にする。

音だけは勇ましい。

だが船足はさっぱり上がらず、船首が大きく持ち上がるばかりだ。

その船首が持ち上がったのを波のせいと錯覚することもあるだろう。

ほどんど動かないと言ってよい状態で釣り船は船首を大きく上げる(おそらくほぼ30〜40度くらいの角度。大波を越える場合、これくらいに傾くこともある)。

きわめて近い距離で大型船がその半分を過ぎたとき、水流の吸引が働きはじめる。

釣り船はほぼ”立った”状態で大型船に吸い寄せられ、船壁に接触する。

その際、当然操縦者は舵を外側に切ろうとするが、スクリューが立った状態ではかえってふらつきが激しくなるだけだ。

写真を見ればお気づきのように、これくらいの小さな船には舵板はついていない。

船の方向取りはスクリューを左右に振ることによってなされるわけだ。

だがこのスクリューの角度ではいくら舵を切っても船首がふらつくだけで、よっぱらいのようになってしまう。

船長はいくらエンジンを吹かしても船が立つばかりで前に進まず、大型船が近づいて来たから舵を切ろうとしても船がふらつくばかりで大変慌てただろう。

きわめて不安定な角度の小型船は横からの大きな力が働かなくとも横転する可能性がある。

言っておくがこの程度の小型船であっても姿勢が正常に保たれていれば大型船の船壁に接触しょうとそんなに簡単に転覆するものではない。

スクリューの角度からするなら慌ててエンジンを全開する釣り船はアシカのように立っていたと推測できるのである。

大型船の船壁についた傷の高さは、釣り船のその危険な角度で立ち上がった船首によるものかもしれない。

釣り船の乗組員が大型船が10数キロの遅い船足で迫って来たにもかかわらず、すごいスピードで近づいて来たと証言したのは、おそらく釣り船がその時、エンジンを全開にし、大きなエンジン音を轟かせていたが故に、釣り船も相当の速度で走っていたと錯覚したとも考えられるわけだ。

このように海というのは基準点がないからこそ、錯覚が起きやすい時空なのである。

それはあるいはパラダイムを失った文明の中で生きる現代人の中で起こりうる不明とちょっと似ていなくもない。

なにはともあれ不運が重なり、二名の海の好きな人が命を落としたことは同じ海人として慚愧の思いがある。

ご冥福をお祈り申し上げる。


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