Shinya talk

     

 

2013/01/29(Tue)

騒動の影でなにか物騒なものを鼠が運んでいる。

嵐のごとくやって来て過ぎ去ったアルジェリア。

原発と同じようにのど元過ぎれば熱さ忘れる日本人の熱の急降下。

少しはおさらいくらいやったらどうかと思う。





私個人は国葬とまでは行かないが、遺体を空港で出迎える大臣ら一行の献花、そして総理以下閣僚の黙祷が大変気色が悪かった。



確かに日本人が10人死んだ事実は重い。



だがこの準国葬並みの”おもてなし”にはほとんど違和感がある。

そこには海外における資源調達の企業戦士は日本のために闘っており、その恩恵を私たちは受け……、つまりそこには殺害された人々は”国民生活の犠牲者”という暗黙の合意が見え隠れするからである。



だが日揮はあの彼らが関わったフィリピンの悪名高いエタノールプラント事業やわずか数千万円のプレハブを数億円もの血税をくすねて作った”お笑い”ムネオハウスと同じように企業として利潤を上げるために砂漠に行ったに過ぎない。



日本人の生活を支える役目を担っているということなら何もエネルギー資源を調達している企業に限った話しではなく、働く者すべてが日本と日本人を支えているのである。

日揮の顛末は自己責任に負うべきことであり、ことさら特化すべき事案ではないのだ。

かりにフリーの取材者がイラクで拘束され、殺された、あるいは拘束され開放された事件があった。

このCat Walkでインタビューした安田純平さんもその一人だ。



あの折の”自己責任”の大バッシングと今回の準国葬並みの日揮の扱いの異相も気色が悪い。

単身の取材者であれ、それは現地の貴重な情報を命がけで収集している、日本のみならず世界シーンで役立っている”労働者”なのだ。



起きたことの劇的な展開、あるいは人間の死にかまけて本質を置き忘れがちな昨今のマスコミは以上のことを銘記すべきだろう。



またそれ以上にこの劇的な展開の騒動のさなか、その騒動の陰に隠れるようにして日本人の今後の生活に大きく関わる問題が密かにねじ曲げられようとしていることに私たちは注視しなければならない。



例の「発送電分離」である。



電力会社は新政権に日参し、これを受け、アルジェリア騒動を利用して政府はいま「発送電分離」うやむやにしょうとしている。



私は最近新聞を読んでいないが、この件はきちんと報道されたのだろうか。

報道されていないとすれば、マスコミも無意識国民並みの熱に浮かされた無意識集団ということになる。



何か大きな事件で世間が沸き立てば、その騒動の陰で秘密裏に鼠が動き回るのは毎度のことなのだ。



今からでも遅くない。

ちゃんと報道しろ。

     

 

2013/01/21(Mon)

美しい国ニッポンの危機管理。

30代のころ長い外国生活で日本に帰って来て思うことは日本という国は内向きということだった。

島国で生の情報が直接飛び込んでこないということもあるだろうが、それが脆弱なものであろうと、自分の持っている基準というものが諸外国でも通用する普遍的なものだと思い込んでいるふしがある。

そのことが示すように私が常々思っていることは日本および日本人は自分を外側からの視点で眺めることが苦手だということだ。



たとえば今回のアルジェリアの人質事件関して、世間では人質が何人死んだ、武装グループが何人死んだ、というようなことばかりが報道されているが、それとは少し異なった視点から今回の事件を眺めてみる必要がある。



それは人質事件に際し、各国の首脳が出したコメントについてだ。

今回の事件に関してはフランス以外のさまざまな国の首相のコメントが紹介されているが、特にイギリスのキャメロン首相と日本の安部首相のコメントが繰り返し流され、目だった。



ご承知のように阿部首相は”絵に描いたように”終始「人命尊重」の一点張り。



しかし私は彼が繰り返す言葉になぜかリアリティを感じない。

人命尊重、そして人質が助かってほしいことは言わずもがな。

国民の誰もが願っていることである。

彼の言葉はその国民の総意を代弁し、大原則を繰り返しアナウンスしているに過ぎない。

それは彼の淡々とした表情とも相まってなぜか聞くごとに虚しい。



一国をあずかる首相であるからには、国民の総意や大原則をトレスするのではなく、もたらされた情報を駆使し、つまり現場の空気を察知し、一歩も二歩も踏み込んだもう少しリアリティのある、”発言”をすべきなのである。



その点においてイギリスのキャメロン首相のコメントは安部コメントとは対照的だった。



「我々は事態が深刻なものになることを覚悟しなければならない」



政府が収拾した現場の情報を元に口にする彼のコメントにはひしひしと現場の状況が伝わり、その厳しい表情とともにリアリティが伝わる。

そして国民にむかって”覚悟”をするように促す。



そして当然のことのように事態は彼がコメントする無残な方向へと動く。



この時点でまだ安部首相は”人命尊重”的発言を繰り返している。



私は彼の繰り返される人命尊重コメントを聞いて、彼が最初の首相の座に就いたときのキャッチフレーズ「美しい国ニッポン」を思い出す。



安部のコメントはどこまでも”美しい”のだ。

美しく、そしてリアリティが乏しい。



そしてこの外の空気に疎いリアリティのなさは日本そのものであるように感じる。



たとえばここで小さな実験をしてみよう。



キャメロン首相と安部首相のコメントを入れ替えてみる実験である。



キャメロン首相。

「我々は人命尊重を第一に考えている」



安部首相。

「我々は事態が深刻なものになることを覚悟しなければならない」



キャメロン首相がなんとのどかでノーテンキに見えることか。

そして美しい国ニッポンの安部さんにこのキャメロンの言葉ななんど似つかわしくないことか。



アルジェリア軍政権基準では、今回のような方法が取られることは大方の国が想像したはずであり、私もそのように思っていた。



だがこのキャメロンのように”危機を覚悟すべき”と言った国と、人命尊重をトッププライオリティとしてあげた国の今回の件に関するその後の危機管理はどうだったのか。



イギリスは大手石油企業BPと協議の末、すでに18日には3機の救援機チャーター便を現地に飛ばし、現地の外国人従業員ら数百人をアルジェリアから移送ししている。

そして国独自のチャーター機も飛ばし、ガスプラントのフィリピン人従業員34人を乗せて、ロンドンに向かわさせた。

さらには英外務省が自国民保護のための特殊チームを航空機でアルジェリアに派遣している。

当然のことながら危機管理に長けた米国もチャーター機を飛ばし、救出された米国人の移送のためにイナメナスの空港に向かった。



イギリスが今回の事件とは関わりのない地域のプラントで働く大量の現地従業員を退避させたのは、武装グループの計画が9・11のときのように連鎖計画であることを警戒してのことであることは明白だ。



ところがこの時点、つまり安部首相が”人命尊重念仏”を繰り返しているそれらの日々、日本はまったく”人命尊重”にむかって行動していない。

開放された日揮の社員は自分で帰国便の切符を買うために右往左往しているありさまなのである。



この好対照。

危機を口にする国が即座に危機管理に動き、人命尊重を繰り返す国の危機管理が機能しない。



政府は今日つまり事件がほぼ終息に向かっている21日になってすでにオペレーションを終えている各国の敏速な危機管理を見て(一説にはアメリカからの忠告を受けて)あわてて政府のチャーター機をアルジェリアに飛ばしている。



私には今回の政府の詰めの甘さ、リアリティの欠如、は民主党政権下における原発事故対応と二重写しに見えてしまう。



政権が変わろうと、それは平和ボケ島国における日本人から日本人の手に為政が受け渡されたに過ぎないのである。

     

 

2013/01/15(Tue)

体罰は犯罪か。

先日、門司港での同窓会の折、古沢先生がお亡くなりになったとの報に接した。



古沢先生は私が中学校三年の折の担任で職業担当の先生だった。

職業担当というと先生方の中ではマイナー立場で、そういったこともあるのか、男性だが非常に押し出しの弱い、どちらかと言うと慎ましい感じの先生だった。



しかし私はこの先生にビンタを食らったことがある。

中間テストの折に何のテストだったか忘れたが、生意気な私は机の上に教科書を堂々と出し、カンニングを行っていたのだ。



古沢先生が見回り、私のそばを通った時も私はそのままカンニングを続けた。

先生は私の横で立ち止まり「立て」と小さな声で言った。

立つとビンタが飛んで来た。

平手打ちである。

痛みよりもこの日頃は慎ましい先生がビンタを張ったことに驚くとともに小さなショックを覚えた。



古沢先生はビンタを張ったあとに私の目をじっと見つめていた。

その眼鏡の背後の目を見たとき、少し血の気の引くのを覚えた。



彼は涙ぐんでいたのだ。



その古沢先生の眼は言葉にならない多くのものを語っており、ワルだった中学生の私は言葉にならない何かを感じた。



以降、テストでカンニングをすることはなくなった。



このことが示すように私はあまり勉強の出来ない子だった。

というより勉強というものが嫌いだったのだ。

したがって高校受験の時も商業高校程度の私立(当時は私立は出来の悪い子が行く高校だった)にしか行けないと自他ともに思っており、私立に行くつもりで公立高校は一応形どおりに受けただけで、通るとは思っておらず、合格発表の時も見に行かなかった。



だがその合格発表の日の午後、私の家に電話が入った。

公立に合格したという知らせだった。

いったい誰が知らせて来たのと母に問うと、古沢先生だと言う。

彼は私のことを気にかけており、わざわざ合格発表を見に行ったらしいのだ。

たぶんおそらく私が知る限り、彼が生徒にビンタを張ったのは私だけで、ひょっとしたら彼はそのことをずっと負い目に感じていたのかも知れない。



半世紀後の同窓会でその古沢先生が亡くなったと聞いたのだ。

そして亡くなる前の先生のことを知っている同級生の口から聞いた言葉に私は胸の傷むのを感じた。

彼の家の本棚には私の出版した本がずらりと並んでいたというのである。



生前にお会いしておけば良かったと悔やんだ。



次の帰郷のおりには墓に花を手向けるつもりだ。





                   ◉





大阪の高校で体育の教師が生徒を殴り、生徒が自殺したという報道で世間の論調が沸騰しているおり、私が思い出したのはその古沢先生のことだった。



あの古沢先生のビンタは温かかった。

優しかった。

そういった身体行為を”体罰”という言葉でひとくくりする世間の論調に危うさを感じる。

こういう身体の接触行為というものは百あれば、そこに百の個有の事情と差異がある。

大阪での事例はその一件がどのような状況でどう行われたのかという報道が一切ないのは報道の体を成していない。

個人的には何十発も殴るというのは、確かにこれは常軌を逸脱しているとは思う。

殴るのは一発、思いを込めたものでしかも平手であるべきであり、拳を握って殴るというのはこれも常軌を逸脱している。



いわゆる報道で判断のつくのはその程度のことであり、この一件があったから教師と生徒の身体接触のすべてが悪であるという一方的な世間論調は危い。



ある女性の教育評論家は”再犯率”という言葉を使っていた。

つまり”体罰”を行う教師は”再犯率”が高い、とまるで犯罪者扱いである。



この教育評論家の言に倣えば古沢先生は”犯罪”を犯したことになる。


その”犯罪”によってワルだった私は更生したことになる。


評論家はその矛盾をどのように穴埋めするのか。

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