Shinya talk

     

 

2012/12/28(Fri)

言葉は風なり(Cat Walkより転載)。


選挙に関する投稿は適当な時期に締め切りにしょうと思っていたが、関連して次々に投稿が寄せられているうちに、他のテーマまで掘り起こされたり、小さな対論が立ち上がったりもした。



そのうちにまとめて私個人の意見も差し挟もうと思いながら、そのようなわけでなかなかタイミングが掴めず、加えて投稿を全部読んで消化し、取捨選択してまとめるのにいっぱいいっぱい、ということもあり(こんな時にノーテンキに歌は唄ったが)まだ私の意見は述べていない。



よく車座対論などで喧々諤々、口を挟もうにもなかなか出番が回って来ないというアレのようなものだ。

だがCat Walkはじまって以降、ゴミ問題に同じく百家争鳴。

これはなかなかの見ものである。

私は皆さんのご意見は掲載していない(あるいは掲載を不可)分を含めて全部プリントアウトし、バインダーで閉じ、一冊のノートのようにしているのだが、そのようにして通読してみると2012年暮れという時代の潮目における普通の市民の証言として大変貴重なものに思えて来た。



そんな中、投稿掲載2回目(19日)の、一回目の投稿を読み、それらの投稿が私の意見(トーク)に流された信者のように見え不気味だ、と投稿していた方がいらしたが、とてもとてもそんなものではなく、これほど個人の顔の見えるバライティに富んだ論調各論は、この”空気読み”で自分の意見を飲み込む風潮のある時代においてはむしろ珍しいのではないかとさえ思っている。

ちなみに通読してみると、その批評的投稿をなされていた方の書かれていた選挙に関する意見が(バランス感覚を重んじるあまり)いちばん自分を殺した無個性なものだったのは皮肉なものだと思う。

他者を批判するおりは、その批評に叶うだけの自分のしっかりした見解を構築しないとみっともないことになる、という見本のようなものだ。今一度ご自分の意見を読まれ、今後に生かしていただきたい(ごめんなさい。私ははっきりモノを言うたちなので)。



まあそんなことも含め、今回は大変面白い展開となったが、ひとつほほうと思ったのは、今回の選挙で落ち込んでた方がこの場で展開されたさまざまな意見を読むうちに癒され、力が湧いて来たというような投稿を読んだ折りだ。

この時代、とりわけ3、11以降、直近の選挙まで、この世の中を覆う閉塞状況に対する手っ取り早い答えというものはない。

だが、その閉塞の中においてさえ、個人としてのその思いを吐露する”言葉”が生きている、ということはまさに”生きている”ことの証であり、それは一つの風通しのよい穴であり、酸素不足の、そして線量に満ちた世の中の空気の浄化行為でもあるわけだ。





その意味において”言葉”とは場の空気に命を与える”風”のことなのだ。





さて、暮れも押し迫って、昨日は昨年の「書行無常展」に携わった10数名のスタッフに忘年会を兼ねて飲食を振る舞い、家の帰るのが朝方となったが、暮れはそれなりに忙しく、今回の投稿に関する私の意見は年末から正月開けのCat Walkの休み期間内にまとめてみようと思っている。



そして以下におそらく最終回となるだろう、投稿を掲載する。

投稿者内における対論に関してK.S.さんは「私は基本的にS.Sさんの意見に賛成です。」と書いているが、掲載不可で投稿された方の中には「S・Sさんの投稿に対するT・Aさんのコメントは、冷静かつ、的確であると感じました。」との意見もあることを付け加えておく。



「言葉は風」の思いを残して今年のトークの最終回とする。



みなさん、よいお年を。

     

 

2012/12/17(Mon)

あちら側の神経系とこちら側の神経系はどこかでぷっつりと切れているのかも知れない。


今年の夏前にいささかショックを覚える出来事があった。



6月のことだが、夏用のカーテンを作るために工務店の業者を呼んだ。



30代半ばの劇作家の三谷幸喜を小振りにしたような、感じのよい営業の青年がやって来た。

仕事もなかなか誠実で、持って来た資料の中に好みのデザインがないと言うと、わずかな賃金の工事のために暑い最中、大きな重い見本帳を何度も持って来てくれた。

そして二週間後に無事取り付けは完了した。



その日、お礼にと、近くのレストランで昼をごちそうし、四方山話をしたのだが、その折にふと原発のことに話を振ってみた。



「ところであなたのような勤め人は原発なんてどのように考えてるのだろうね」



青年は「えっ」と浮かぬ顔をした。



それからちょっと口ごもって言う。



「原発ってどうなってるんですか?」



「あれっ、知らないの?今福島の人が一つの市の人口の6万人くらい家や土地や仕事を失って全国に逃げているんだけど」



「へーっそんなことがあるんですか」



私は呆然とした。

あまりの無知に一瞬この青年はウソをついているのではなかと疑ったが、そのような青年ではない。



彼は中堅の大学も出て、都内各所に店舗を張る中堅どころの工務店の営業マンである。



頭も良いし、人間的にもすこぶる感じが良い。



それだけにこの”おそるべき”と言って差し支えない無知にはいささかショックを覚え、一瞬しばらく会話が途絶えた。



「あのう、たとえば君たち、お勤めをしている仲間で原発問題とかが話題になったりすることはないの?」



私は気を取り直してあたらな質問をした。



「えー、そういうのぜんぜんないですねぇ」



「ぜんぜんって、まったく話題にならないということ?」



「そうですね、これまで一度も話になったことはありませんね」



悪気もなく彼は淡々と答える。



「じゃどういう話をするの?」



「やっぱり仕事の話が多いですね。

あいつが大口の注文を取ったとか、

下請けはあそこがちゃんとした仕事をするとか、

だけどここ数年はどの会社もよくないですから、仕事の話をしていても暗くなることが多いですけど」



                         ◉



その青年と別れてのちもいささかショックは長引いた。



そのショックとは、このような普通に常識的な会話の出来る青年が、人間の生き方の根幹にかかわる原発問題に関してまったく無関心だったということもあるが、それ以上に、そういう信じ難い人たちがこのような状況下の日常に暮らしてるということをまったく知らなかった私自身の無知にもいささかショックを受けていたのである。



思うにこの青年が置かれているポジションはおそらく企業国家日本という国の就労者におけるマジョリティ層を形成しているという見方が出来るだろう。

ということは日本で暮らすマジョリティを形成する人々は原発問題に無関心ということも出来る。

いやというより、何かを無意識に遮断しているのかも知れない。

意識的に、あるいは無意識に”耳を塞ごうとしている”のかも知れない。

「原発」その言葉は最終ステージの不治の癌のという言葉のように、もう”聞きたくもない”忌語であるのかも知れない。



そして何よりもこの青年とその仲間のたちにとって彼らの関心は「原発よりメシの種」なのである。



私はその青年に会って以降、原発問題はこの日本においては広がりを見せないだろうと感じていた。

なぜなら青年はマジョリティ層を確実に形成する一人であるからだ。

つまり今回の選挙の争点のトップが雇用や経済で、原発問題が下位に来ていることは普通のことであり、なんら不思議なことではないのである。



かりに山本太郎が杉並区の選挙に出て、28パーセントの得票があったとするなら、案外それは大出来で、件の青年ショックがいまだに気持ちの中にくすぶっている私としては原発問題を、そしてフクシマをわがことして考えているのは10人に1人、つまり10パーセントくらいではなかろうかと思う。



(日本の)世の中とはそういうもの、とたかをくくるつもりはない。

だが自分の隣に普通の生活を営んでいる人間の”神経系”というものは、あんがい神経系の異なる人々のそれとは繋がらず、ぷっつりとどこかで切れているのではないか、との思いを強くする、今回の選挙結果ではあった。

     

 

2012/12/14(Fri)

日本の心(Cat Walkより転載)。


差出人: Spoonful さん

題名: 沖ノ島からの風



「日本の心-後編」を写真とともに読ませていただきました。この慌ただしい師走と選挙戦の季節に、心静まり、身が清められる思いです。かっての日本には(神道に限らず)このような場所があちこちにあって、人々の心を支え、戒めてきたのでは…。子供の頃、蝶を追いかけ、迷い込んだ森の奥で感じた凛とした空気を思い出しました。

モニターという電子機器を通してさえ、沖ノ島からの霊気を含んだ風が吹いてきます。





差出人: T.K.さん

題名: 日本の心、後編をみて



大学1年のものです。

日本の心、沖ノ島の旅、大変こころうごかされました。

海の底深くでたしかに世界とつながりつつも、群れずなれあわず独立独歩、

沖ノ島に生き方を学んだ気がします。

さっそく島を案内しよう、と藤原さんのあとについていくと、自然とぐっと背筋が伸び

なんだか石上神社に行ったときと似たような不思議な感覚につつまれました。

露出した木の根の生命のエロさ、話しかけてくるような耳、おもわず手を合わせてしまう巨きな岩。

なんでもないような草葉に感動してシャッターを押す藤原さんのとなりで、僕はじーんとしてしまってそれに見とれていました。

しばらくして藤原さんが土器のカーブを掘り出して僕がそれを手に取ろうとすると藤原さんはただ静かに制したので、

僕はそっとしておきました。そのかわり穴があくほどそれに見とれていたので藤原さんにおいていかれました。

喉が渇いたのや腹が空いたのも忘れて、ひとりになった僕はここの空気を胸いっぱいに吸いながら、木々の間から

遥か彼方に見える夕日に見とれていました。

こんなに感動したのは久しぶりです。

連れて行ってくださって、どうもありがとうございます。





差出人: T.Hさん

題名: 沖ノ島


沖ノ島の写真にびっくりして投稿します。
穢れの無い美しさに、うたれます。僕が見てきた自然とは何だったのかとまで考えてしまいます。
祝詞をあげる神主さんの横の太鼓が、満月に見え(幻視)、次のページの水晶の写真には、本当にドキドキしました。今、こうしてメールを打っている間も、まだドキドキしています。
是非これらの写真が欲しい。もちろん、できることなら、この目で見て、この手で足で触れたいと思いますが、それは叶わぬ願いの可能性が大きいですから。
CatWalkオフ会が、こんな場所でできたら、、、さらに叶わぬ夢ですね。



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『日本の心』沖ノ島篇 楽しんでいただいたようである。

私がこのような時期にたまたま出会った沖ノ島という島にこだわったのにはある理由がある。

たくさんいただいた感想にはおおむね穢れのないこの世離れした世界を見て癒されたという趣旨が見られるが、それもひとつの見方感じ方だが、私がこの島にこだわったのは、こういった世知辛い世の中を一時的にでも”忘れ去る”ためではない。



この禁忌の島に入る機会に恵まれ、入島した時、その空気感の穢れのなさに虚を突かれ、同時に私の頭には”フクシマ”がちらついたのである。

人は自然というものを”所有”し、その土地を自らの愚かさによって蹂躙し、また自らが依って立つ場を失った。



こういったかつてない他傷自傷の大きなダメージの中で”非所有の概念”、つまり人事の及ばない自然を(かりにそれがこの地球上の極小の一点であれ)設定した古代人の想念の豊かさと謹慎の心が、今という時代の人間の愚かさに大きく相対化されていることに”島”をレポートする意味を見いだしたわけだ。



つまりこの”島”は科学やテクノロジーの進化の過程の中で全能の錯誤を身につけてしまった人間の”心身の海”の一点にあらためて杭打つべき想念なのである。



以上のような意味において私が島を訪れてあらためて強く感じたことは人間と人間社会は科学やテクノロジーの進歩、経済活動の肥満に応じて心や想念が”退化”して行った動物であるということだ。



それは戦後の、そして昭和の、さらに平成の時代に入ってからの日本民族の民度の惨憺たる低下と軌を一にするわけだが、夏目漱石の「三四郎」で三四郎が上京のおりの列車で目の前の男に「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言うと、男は「滅びるね」と一喝する場面などが描かれているところを見ると、どうらやその民度の低下は戦後のことにとどまらず明治のころからはじまったことかも知れない。



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さてそしてこのたびの選挙ではその民度の低下の”仕上げ”としてグズグズにふやけ、まるでクラゲのように無方向に浮遊しながら流れに乗って掃き溜めのよう一所に密集する平成民族の民度を反映し、自公民が圧勝するとの観測が出ている。



そのことが示すように選挙の争点は一にも二にも経済(金)であり、空気汚染から食品汚染、河川、そして海汚染、そしていよいよ人体汚染へとシフトして行きつつあり、一国を滅ぼす可能性の消えない4号機問題を抱えた原発問題は二の次と、とりあえず”目先”にぶら下がっているアンパンを追っかける民度の浅ましさが浮き彫り。



そのような浮遊クラゲで満ち満ちた平成日本の海にCat Walk島は沖ノ島の想念をいただく独立島としてさらに強靭でありたいと思うこのごろである。

     

 

2012/12/11(Tue)

コックリさん指示待ち選挙の脱力感。



さて選挙も終盤にさしかかっているが、この乱立した政党の顔を見ていると昔ユニクロの戦略に興味を持って店舗を取材した時の事を思い出す。



ユニクロには縁がないので今はどういう風になっているかわからないが、その折は一品多種という戦略があって、実際は1品種しかないのだが、フリースにしろジャージにしろ多くの色を演出して多種あるように見せかけるというものだ。



大量生産品でありながら一見個性を着ているような錯覚を与える方法らしいが、今回の乱立した政党の顔を見るとあのユニクロの一品多種を彷彿とさせる。

見方によっては政策によって差別化されてはいるが、どれもこれも安物の一品種の色変わりにしか見えない。



そういった一品多種選挙の中でも辛うじて未来の党には淡い期待があるものの、嘉田さんという人はこの乱世に存在感を示すキャラクターではない。

しかも事前調査によれば各紙自民が圧勝の勢いとある。



またぞろ先祖帰りかとうんざりするわけだが、この自民への傾倒というのはある意味で3.11以降の不安定な世の中における漠然とした根拠のない安定志向の現れと見ることもできるだろう。





ただこれは笑い話として聞いてほしいのだが一品多種、どれでも所詮同じ商品を選ぶ場合、当たるも八卦、どの色のジャージを着ればツキがあるかということも選択の基準にはなり得るだろう。



というよりこれは単なる笑い話でもない。

この政治におけるツキというものは所得倍増論を唱えた池田勇人や日本列島改造論を唱えたが田中角栄が時代の風に後押しされたように、歴代の日本の国政は哀しいかな政治家は為政能力より政局運営とツキのあるなしが大きなファクターであり、為政は官僚が執り行っていたわけだ。

いかにも日本的と言えば日本的ではある。



そういう意味では東日本大震災と原発で血まみれになった民主党は政治の能力がない以上にツキのない(不運な)政党だったということができる。



しかし時期政権を担う公算の大きい安倍晋三の顔にツキがあるかというと、写真家の私が見てもこの顔はツキのある顔ではない。

というよりもうこの人は前政権での総理の折、閣僚の自殺が相次いだり、選挙中に中越沖大震災が起きたり、参議院選に大敗したりとツキがないことは証明されており、ツキのなさにおいては民主党、前現各総理と似たり寄ったりなのである。



まあそれにしても一品多種の不毛の時代、どの色がツキがあるかと、当たるも八卦、コックリさんのお告げに最後の望みを託さなければならない平成国民もまたツキがないと言わねばならない。

しかし各党党首ざっと見渡したところ池田勇人や田中角栄のような”ツキ顔”は見当たらない。



こうなったら為政能力はどうでもいいから人相、手相、四柱推命、星占い、亀甲占い、その他もろもろの占いを総動員してツキのある人材を捜し出し、党首にすえるという手もあるかも知れぬ。

     

 

2012/12/07(Fri)

福島第一原発を通って笹子トンネルへ抜ける道。


先ほどなじみのドライブインで夕飯を食っていたら、また三陸沖で地震があり、テレビでは異様に緊張した続報が流れ、ドライブインの客たちも食い入るようにテレビを見ていた。



この様子を見ると、昨今の日本人は平静に戻ったかに見えるが、いまだ深層心理の中では3.11トラウマからまだ抜け出しておらず、そのトラウマは水害、各地で吹き荒れる強風や竜巻、といった自然災害が起こるたびに意識のおもてに浮上するようである。



「選挙なんかやってる場合じゃないですよねぇ、こんな危なっかしいことばかり続いているのに。この前のトンネル事故もそうですが、なんで日本はこんなに事故ばかり続くんでしょう」



勘定の折に話好きの女主人が溜め息をつくように言う。



「ああ、笹子トンネルのことですか。あれは福島第一原発の余震のようなものですよ」



「原発の余震?

へぇ、そりゃまたどういうことで」



「まあ、余震というのは言葉のあやですが、こういう風に重大事故が続くというのは何も偶然の機運とかそういうものじゃなく、福島原発も笹子トンネルも日本の公共物のいたるところで安全維持管理を怠っていることから起きた事故という意味で地続きということです。」





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福島も笹子もこれは偶然ではなく必然の結果との思いを強くしたのは、トンネル事故を起こしたNEXCO中日本という会社幹部の記者会見の模様の”無感動”を見たことによる。



確かに会見の席では当然のことながらその表情に萎縮した様子はうかがえるが、ヌカに刺した釘のように何かがスカスカだ。



そこにはつい先ほど、9人の尊い命が、それも轢圧、毒煙吸引、燻焼、という考えうる限りの無惨な苦しみの中で逝ったという、その人の命に対する想像力のようなものがすっぽりと抜け落ちているのである。



確かに定期点検など、どのようにトンネルを維持管理しているかという話は必要だが、弔意、慰霊、というその前段にあるべき内証の空気がどこにも見当たらないのだ。

そしてそのことを自ら気づいてすらいない。



おそろしいことだと思う。



思うに、日本の高度成長期にはこういった無感動なエリートがわんさか製造された。

そして東電にもこういった無感動なエリートがわんさかいたであろうことは想像に難くない。



つまり、福島と笹子は地続きなのだ。

その意味で、今後この無感動人間が引き起こす”人災”は継続的に起こる可能性があると言わねばならない。



経団連の米倉弘昌や石原慎太郎もそうだが、こういったイケイケどんどんの高度成長期に強者の無痛青春期を過ごした人間の、言わば発達障害ともいうべき精神構造が今の日本を牽引しているという不遇のジェネレーションの中に我々は居るわけだが、

そこで思うのはバブル以降、恒常的なマイナス成長の中で、あるいはあらゆるシステムがアポリア(絶対閉塞)の中にある弱者の痛い青春期を送っている今の若年層が高齢になり世の中を牽引する立場に立ったとき、彼らはどのような社会のモデルを発信するのだろうかということである。



そういう意味では昨今の政治を見ても分かるように、今はちょうど指導層の”人材””人格”が”底をついた”状態にあるわけだから、これ以上は”落ちない”という意味において、その先には希望の微光が見えないということではないのかも知れぬ。



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