Shinya talk

     

 

2020/03/16(Mon)

面舵(右進行)でも取舵(左進行)でもない、荒海の中の第三の中庸方位。(Cat Walk3/12の投稿より転載)

これは何度かトークで触れたことだと思うが、このCATWALKというのはひとつの町あるいは市というものを形成しており、このコミュニティの中にはさまざまな職能を持った方たちが暮らしていらっしゃる。

携帯の約款に関するトークを書いた時には携帯ショップの店長さんが、あるいはスタップ細胞に触れた折は実際に理研にお勤めになっていたクルーの方が、あるいはオリンピック競技場の話が出た時には建築関係の方が投稿を寄せ、その都度専門職の話をお聞きしながら逆に学ばせていただくという局面もある。

今回のコロナウイルス問題に関しても3名の専門職の方から意見が寄せられている。

今世の中はコロナウイルスに関しても専門から素人まで百家争鳴、喧々諤々とさまざまな意見が飛び交っているが、それではCATWALK内の専門職の意見もまた百家争鳴、喧々諤々に与しているかというとどうもそうではない。

ひとつの世間から距離をとったCATWALKという孤島においての個人的な見解であり、それは何よりも”人の言葉”として耳に伝わるということだ。
そこが大事なのではないかと思う。

そういう意味ではこのCATWALKというのはきわめて得意なコミュニティであると、今回のことも含めそのことを再確認した思いがある。




さてコロナウイルスの動きに関してその人の言葉としての見解を理解した上で、ここでひとつ言っておきたいことがある。

今世の中であのいかがわしい人相のWHO事務局長が中国のコロナウイルス沈静化とともにパンデミック宣言をし、世の中の意見は楽観的な層と悲観的な層に二分されつつあるように思う。

いつの世もあらゆる問題においてこの楽観層(抑え込めると言っているトランプ)と悲観層(国民の5千800万人が感染すると言うメルケル)が現れるのは人間にはその二つの性向がその身体に刻み込まれていることによると思っている。

つまりそれは右的人間と左的人間ということになる。
この右か左か、というのはつむじにも右巻きと左巻きがあるようにひとつの「宿命」である。

この右の渦と左の渦は決して同調せず、ぶつかり合う。
例えば仏教徒やヒンドゥ教徒やラマ教徒は仏舎利などの宗教シンボルを回る時には右回りであり、逆にイスラム教徒は左回りであり、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒が何においても相容れずぶつかり合うのは身体性(及び思考)が逆だからだ。


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カーバ神殿を回るイスラム教徒。

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仏舎利塔を回るネパール仏教徒。

この右思考左思考は当然この日本にも存在し、それが政治分野においては右派、左派、となりそれが極端化したものが右翼、左翼となる。そしてどちらかと言うと右は楽観的であり、左は悲観的だ。



この悲観思考、楽観思考は先の原発時に私たちはいやというほど経験し、このコロナウイルス問題においてもいま同じことが繰り返されている。

そんな中、原発時の対処に鑑み、私は取るべき方法はひとつと単純に理解している。
いかなる専門家も百パーセント確定的なエビデンス(証拠、証明)を持ちえない(原発問題がそうだった)場合、楽観思考より悲観思考の方を選ぶべきだということである。

いや悲観という言葉は使わない方がよいかもしれない。
この悲観というのはセンチメントな感情を言うのであり、それはストレス用語だからだ。

つまりものごとを甘く見ず、万全に慎重を期す。

それに尽きる。

私がわざわざライカギャラリーで無様なマスク姿をさらしている写真を選んでいるのはここにある。

ちなみに船長の場合は左でも右でもない。
身体性は右、思考は左。
それが人間の中庸だと心得る。



海が荒れ気味になった時にローリング、ピッチング、ヨーイング、と言う船の揺れ方がある。

ローリング(左右揺れ)ピッチング(上下揺れ)はご存知だと思うが、荒海ではこのヨーイングが最も厄介だ。

つまり船首の左右の振れである。
荒海でなくとも切っ先の鋭利な船首は不確定な波や海流の圧力を受け、常に左右に振れている。
だから常に舵を微妙に左右にコントロールする必要がある。

海が荒れた場合、このヨーイングは激しくなり、力技が必要となる。
さらには船の後方からの追い波が激しく船尾を押しはじめた場合、船はブローチング状態(左右の大きなふれ)になり、航行不能となる場合もある。

つまり航行とはヨーイングコントロールのことなのだ。
それは進行方向を中庸に保つと言うことに他ならない。
このコロナウイルスの荒れる海において、海を甘く見ることなく、慎重に万全を期し、右振れ左振れを抑える。

要(かなめ)はそこにあるように思う。