Shinya talk

     

 

2019/08/12(Mon)

法治国家でない限り、表現の自由は成り立たないという基本が守られぬ三流国家としての日本。(CatWalkより転載)

Y.T
タイトル:小泉劇場

原爆の日の間隙をぬっての小泉劇場。首相官邸を使った小泉劇場に、なんともやりきれない思いなのは私だけでしょうか?
幸い?東京新聞は、翌日か翌翌日の紙上で劇場報道を批判していましたが。
ワイドショーの時間を狙い、将来の首相候補をよいしょする安倍政権。
ここまできたか!という感じです。
でも、批判の声は聞こえてこない世の中。
いやはやです。



Catwalkは今日から18日(日)までお盆休みに入る。


休みにあたって先日催されたトーク&ライブ「旅の音色」を表紙展開としたので休み中に楽しんでいただきたい。


また近々の話題で2点ほど船長の見解を簡単に述べておきたい。


ひとつは投稿にもある官邸を使った小泉進次郎の婚約会見だが、私は当日Catwalk会員の遺骨を船に乗せ、海を回遊していたため、この話題はあとから知ったのだが、官邸とは税金で運営している公共施設であり、また安倍首相の所有物でもなく、そのようなところでテレビを呼んで婚約の記者会見をするというのは公共施設の私物化もはなはだしい。


安倍首相の官邸、そして国会議員ということで何でも自由になるという昨今の自民党の奢りがこのような場面にも出ており、こういった勘違いをロートル政治家ならまだしも若手の議員が平気で行っているのは感覚の狂いを感じる。


進次郎は親の七光りで次期首相などと持て囃されているが、演説の内容などを聞くと大した思想があるわけでもなく小泉純一郎同様小頭の働く小細工師にすぎない。


これは俳優になっている兄の小泉孝太郎も同様で、彼が純一郎の子供でなければ写真家の私から見ればルックスもまったく魅力なく、演技も実に下手くそで、本来ならうだつの上がらない大部屋のただの売れない芋役者に過ぎなかったはずであり、こういったものが世間に持て囃されるというのはいかにも日本的である。



愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」にひとこと。


私はこれまで数々の展覧会の審査などを行っているが、表現の自由とは何でも許されるということではなく、私自身も応募作品を却下したことがある。ある大きな展覧会の審査委員長をやっていたおり、コマーシャル系の写真家の応募で次のようなものがあった。


組み写真の@は業務用のミキサーの中で100匹の小さな金魚が泳いでいる。


Aではミキサーの羽がまわりはじめ、金魚がズタズタに切り裂かれ、黒い目玉なども攪拌されている。


Bではミキサーの中で完全にジュース化されたピンク糸の液体が完成されている。


作者は人間はこのように生きものを殺して生きているということを訴えたかったのだろうが、表現のために100匹の金魚を殺すというのは表現の自由の勘違いも甚だしい。


今回の「表現の不自由展」に関しては監修を行った津田大介に避難の矛先が向けられている(この件に関し私は津田大介にひとつの質問メールを送っているが、センシティブな状況でもありいまだ返事はない)。


私が一点聞きたかったのは慰安婦像の展示に対し、ガソリン携行缶でのテロ予告がFAXであったとき、県警は動いたかということである。


のちの調べによると当初どうも県警は動いた形跡がない。


ご承知のように北海道において安倍首相の選挙演説にヤジを飛ばした一般人を道警が連行するというような官警癒着の構造が見られる昨今、こういった日本を非難するような展示に対しての脅しを県警が見て見ぬふりをするということは考えられることであり、実際に県警が動いてテロ予告者を確保したのは県警に対する非難がおきはじめたことによるものであり(コンビニからFAXをするような間抜けな犯人を確保するのは簡単なことなのだが)おそらくテロ予告を放置していたというのが実情だろう。


朝日新聞では宮台真司が「テロ予告があれば警察と連係」などとお花畑的解決策を書いているが、今回の展示では県警は敏速に動かなかったという経緯が濃厚であり、であれば法治国家としての体を成していないということになる。


かりにそうであれば主催者側および監修者は無法国家で展を開催せざるを得ないということであり、開催の中止はやむを得ないというのが私の見解である。


表現の自由を盾に当事者を非難中傷することは簡単だが、ことこの日本に関してはさきのフランスのシャルリー・エブド襲撃事件のようにメディア警察一体となった表現の自由に対する毅然とした態度のようなものは望むべくもなく、今回の一件はこの日本が三流国家であることをはからずも証明する結果となったと言える。