Shinya talk

     

 

2019/04/01(Mon)

劇場化された新元号に関して。(Cat Walkより転載)

「令和」



ああそう、という感じである。

ただ文字としては座りが悪い。



書家としての船長は文字を見ると筆を取ったとき、真っ先にこの文字を書きたくなるかどうかということがまず頭をよぎるわけだが、この令和には揮毫したいという意欲をそそる魅力がまったくない。

それはこの人を見て写真に撮りたくなるかどうかと同じであり、令和には写真に撮りたい“姿”というものがないということである。



それにかりに揮毫したとして縦書きにしても横書きにしても“筋”が見えない。

筋とは例えば人間の背骨のような基本骨格であり、それがないからこの令和という文字は堂々と立っていないのである。

史実や古典から意味先行で拾ったいかにも日本人的頭でっかちな選びであり、頭で生きている首相から懇々と意味を言い聞かされるごとに鼻白む。






それに新元号に対する熱狂が過剰である。

元号であろうと人の名前であろうと名前が変われば確かに気分は変わるだろうが根本的な何かが変わるわけではない。



昭和天皇が崩御されて平成になる折は今回ほどの大騒ぎにはならなかった。

また平成新元号の折は小渕長官が「平成」書を掲げるわけだが当時の竹下総理は今日の安倍総理のように大々的な会見を開くようなことはなく、囲みでコメントを求められ、それに淡々と答える程度のことだった。



それから見てもこの安倍総理の舞い上がりぶりは、内閣支持率が一つの人気の指標となった今日、新元号に便乗しての人気取りの恣意が透けて見える。







だが平成元号の発表時と新しい元号である令和の発表時の今、それとこれの何が異なるかというと、平成においては未曾有の災害である東日本大震災と福島原発事故を経験したということだ。

もともと農耕民族であり、自然崇拝のDNAを持つ日本人にとってこの大災害は心の深層に深い傷跡を残し、いまだにその傷は癒えていない。

また戦後復興と高度成長の牽引となった原発エネルギーが崩壊したことも先進国としての自信を失わしめるに十分な出来事だった。



この巨大災害と事故はその後何をもたらしたというと災害事故によって発症する被害妄想から来る居直りめいた日本賛美と右傾化である。



日本はこんなに美しく素晴らしい。



外国人はこんなに日本を賛美している。



震災以降、テレビをはじめとする様々なメディアで日本賛美番組や記事がゾッとするほど増えたことは皆さんもご承知の通りである。

これはこのたび国連がまとめた世界の国々の幸福度ランキングの日本58位とは大きく乖離しており、特に寛容度、自由度の面で評価度が低かったのは安倍政権の姿とぴったりと重なり合う。







新元号令和はそういった大震災や原発災害で自信を失い、その反動としての日本賛美や一部の過激な右傾化の排出した時代背景の中で発表されたということだ。

この過剰な熱狂もまた私には平成時代に発症したひとつの精神的外傷の発露のように受け取れるのである。



因みにこの元号というものは一つの時代の名称であり、あまねく国民が偏った意識を持つことなくその名称の下で暮らすわけだが、ここのところの日本賛美と右傾化というものを反映してか一部のシーンで考え違いをしている風景が垣間見え気持ちが悪い。

その象徴が元号に関する有識者懇談会のメンバーである宮崎緑さんの出で立ちだ。



彼女は確か元NHKのアナウンサーだったと思うがいつの間にかこういった政府関係の会合の度々顔を出し、それ自体は別に取りざたすべきものではないが今回の懇談会で着てきた衣装が昨今の右傾化と日本回帰的な風景丸出しの巫女さんのような出で立ちで非常にグロテスクである。



また先ほどNHKの特番を見ていると安倍政権と蜜月関係にあるNHK解説委員の岩田明子がなぜか顔を出していた。

こういったグロテスクでさえある右傾化と私たちが日常的に共有する時代名称とは全く無縁でなくてはならないということを心に留め置かなくてはならないだろう。



付け加えるなら平成の書を持った小渕には若干天然が入っており、それはそれなりに様になっていたが、令和の書を持つ人物があまりにも陰々滅々として暗すぎる。

作り笑みも嘘くさい。

何か行き先が暗くなるような菅にこれからの時代を担う書をなぜ持たせるのか。



別に政府関係のむさ苦しいオヤジが書を持たなくてはならないという決まりがあるわけではないから私がディレクションするならローラちゃんとかりゅうちぇる君なんかに書を持たせる。



こっちの方が絵として映えるし、ずっと未来が明るく感じられる。