Shinya talk

     

 

2018/09/19(Wed)

諦観のやすらぎの中で逝く。(Cat Walkより転載)

同じ釜の飯を食った者が逝ったとの思いがしなくもない。
樹木希林は1943年1月生まれ。
船長より1歳年上だがほぼ同年代と見て良いだろう。
戦火の中で親が情交して生まれた40年代の前半に生まれた世代はいたって数が少ない。

戦争が終わった45年の平和時に種付けられ、46年以降に生まれたいわゆる団塊の世代は44年以前の世代に較べると圧倒的に数が多い。
樹木と私の世代はちょっと不埒(ふらち)なところがあり、頑固で群れることが嫌いと、それ以降の世代とはわずか数年の差だが大変異なる。
そういう意味で彼女は極めて戦時生まれ的性格を所有しているということだろう。
同じ釜の飯を食ったとはそういうことだ。

いつだったかそんな彼女が私の目の前に不意に現れたことがある。
円卓が会場の方々にあり、出席者が着席していたから何かゆかりの者の結婚式だったかも知れない。
その円卓に座っていると、隣の円卓から一人の女性がトコトコと歩き、私の前に立って腰を低くし「はじめまして樹木希林と申します。いろいろ読まさせていただいております」と言った。
残念ながら私がその時どんな受け答えをしたのかさっぱり記憶から飛んでいる。

彼女とはそれっきり縁がない。
だが何年か前に映画「おくりびと」でアカデミー賞を取ったおりにその映画の主演をつとめた樹木希林の娘婿の本木雅弘君が私に連絡を取って来たことがある。

その折の経緯も詳しくは覚えてはいないが「おくりびと」の発想は本木君がかねがね読んでいた「メメント・モリ」が起点となっていて、その脚本制作時に青木新門さんの「納棺夫日記」も参考にした。

そんな縁があり、彼が私に対談を申し込んで来たということだろう。
その対談は房総の海際のアトリエで行い、浜辺で写真を撮った。

その別れ際に携帯番号を交わしたが、その番号を書いた紙を紛失したので、以降樹木希林と同様、本木君とも親交を交わす機会がなかった。

だが何年か前のことだがテレビで樹木希林が今年の言葉を求められ「漏」という言葉を色紙に書いているのを見て、ひょっとしたら彼女はまだ私のことをフォローしているのかなと思った。
というのは「諸行無常」のおり、奈良の神社で今年の言葉として「漏」という書を揮毫し、それを週刊誌に発表していたからである。

そして今回、樹木希林が逝き、その後の彼女が残した死への諦観とも受け取れる言葉の数々を知って思うことは実はこの「メメント・モリ」は私の本の読者でもあった樹木希林が娘婿の本木君に伝えたのではないかということである。

その本木君はこの本を起点に素晴らしい仕事をし、樹木希林は自からの死を賭してある意味でメメント・モリを越えたとも言える。

見事な死だったと、そう思わざるを得ない。

合掌




「朝日の当たる家」(Cat Walkより転載)


1966年に日本武道館で行われたザ・ビートルズの日本公演は今では伝説になっているが、船長はこの公演に居合わせたラッキーな日本人のひとりである。
だが私がとくだんビートルズのファンだったというわけではない。
当時ビートルズは全世界が騒がれていたが、街でチンピラ稼業をやっていた私にとっては対岸の火事でどうでもいいことだった。

そんな街の馬の骨のような青年に思わぬ話が舞い込んで来た。
ある組の幹部が絶対に手に入らないというザ・ビートルズの日本公演のチケットを10枚も手に入れたのだ。今も大差はないが、やはりこの世界ではヤクザ組織が関わっているということだ。
そのチケットを兄貴分と一緒に武道館に行って売ってこいと6枚渡された。

確か額面は2、000円くらいだったと思う。
当時としてはなかなかの額である。
10倍の2万円くらいで売ってこいと言われた。
水増し分売り上げの二割をくれるということだったから大喜びだった。

だが兄貴分と勇んで武道館の方に行ってみて驚いた。
地下鉄の神保町から武道館までの道筋にずらりとダブ屋が居並び、通行人に声をかけているではないか。
客を拾うのが大変だった。

結果的に4枚売れたが確か2倍の4〜5千円くらいだったと思う。
公演時間が近づき焦った。

だがとうとう2枚チケットが余ってしまった。
親方のどなり顔が浮かんだ。

「どうする、これ?」

兄貴分が余ったチケットを手に言った。

「公演が終わったらただの紙切れですら、自分たちで見るしかないんじゃいですか」

私はそう答えた。

「ただ半券しか持って帰らなかったら、チケット代払わされるかも知れないぞ」

「そうだとしても紙くずになるより、見た方がいいと思います」



そのような経緯で私は伝説のビートルズ日本公演を見ることになったわけである。

シートは上階のステージから遠いとことだった。

壇上に司会が出て来て「ああしてはいけない、こうしてはいけない」とさまざまな注意をたれてうざかった。
司会が下がり、いよいよビートルズが現れるかと思ったら、日本人タレントが次から次に出て来て演奏したが音響が悪いためただの騒音にしか聞こえなかった。
日本人タレントが下がり、いいよいよビートルズが現れると開場は熱狂の嵐で歌はぜんぜん聞こえなかった。

隣のシートを見ると兄貴分は眠っていた。

公演はあっと言う間に終わった。



樹木希林の死を知ったあと、私はふとこのビートルズ日本公演のことを思い出した。
のちにこのビートルズ日本公演の前座をつとめた日本人ミュージシャンの中に樹木希林の夫の内田裕也がいたことを知ったからである。
いろいろと探すと以下のようにビートルズ日本公演の前座公演の記録があった。

https://www.youtube.com/watch?v=fQPKSbHoTYk

樹木希林はこのうら若き内田裕也に惚れたのだ。
内田裕也と言えばこれといったヒット曲はない。
だが樹木希林は内田裕也の歌うある曲に惚れたということを樹木の死後に知った。

1964年にリリースされたアニマルズの曲「朝日の当たる家」である。

私はユーチューブを開き、その内田裕也の歌う「朝日の当たる家」を聴いてみた。

なかなかいい。

若き頃歌った「朝日の当たる家」、年老いて歌った「朝日の当たる家」

そのどちらもが良かった。

https://www.youtube.com/watch?v=kwOA2WQgaNM
若い日の「朝日の当たる家」。

https://www.youtube.com/watch?v=H6LCNRlnK2o
年老いた「朝日の当たる家」。

この歌を聴くと樹木希林が内田に惚れたのもうなづける。




だが樹木希林その歌から読み取れなかったものがあるかも知れない。

「朝日の当たる家」ギャンブラーの歌である。
スーツケースひとつ持ってニューオルリンズを彷徨う酒びたりでギャンブルに溺れた男。
そんな男に惚れた女性の悲しい歌だ。

内田裕也がその歌の主人公そのものであったかどうかはわからない。
だが彼は家庭というものを嫌い、家を飛び出した。
樹木希林はそれを許した。

だがいかに豪毅な女性でも女性は女性である。

どこかに淋しさとストレスを抱え込んでいたに違いない。

あるいはそれが早死にという結果に結びついたのかも知れない。

私は武道館の前座に出ている若き内田裕也の映像を音を消して何度も見た。

そこには、そのステージをボンヤリと見ている22歳のチンピラの姿も映り込んでいるような気がする。