Shinya talk

     

 

2018/05/24(Thu)

日大アメフト問題の陰で由々しき問題が進行している。(CatWalkより転載)

日大アメフト問題が炎上するその陰で、あるいはそれ以上に深刻な問題がひそかに進行している。

発端は5月17日付「日刊ゲンダイ」紙上の以下の記事である。

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要するに森友問題のスクープを出し、さらにこの問題に現在進行形で関わっているNHK記者のとつぜんの考査室への左遷。
これには何らかの大きな力が働いているのではないかとの憶測をもとに書かれた記事である。

もしこの記事に書かれていることが事実であるとするなら、言論統制事案とも考えられ、マスメディアのみならず私のように言葉を編む人間にとっても深刻な問題であり、さらに言えばメディアの言葉を享受している一般市民にとって、ある意味で日大アメフト問題以上に大きな問題であると言える。

そしてこの「日刊ゲンダイ」の記事はネットで拡散し、岩上安身氏、望月衣塑子氏、金子勝氏など著名なジャーナリストや学者などがフォローし、大きな問題に発展するかに見えた。
だが件の日大アメフト問題が恰好のスピンコントロールの役割を果たし、一連の動きに水を注す恰好となった。

ただし私個人は手放しで「日刊ゲンダイ」の記事に追随するのはいささか早計ではないかとの思いもなくはなかった。

というのは「日刊ゲンダイ」の記事は刺激的内容であるには違いないが、この記事の中の事実(ファクト)は「森友問題に関わっていたA記者が考査室に左遷される」のみであり、それが阿倍政権に対する忖度人事であるかのごとく書かれているのはあくまで憶測の領域を出ないからである。

そんな中、「日刊ゲンダイ」の記事が出て5日後の5月22日、この問題に関し、ニュートラルな視点で書かれた以下の元NHK記者の論考がYahoo!ニュースに出稿された。


「拡散される森友問題スクープ記者を“左遷” NHK「官邸忖度人事」の衝撃」は本当か?」
https://news.yahoo.co.jp/byline/tateiwayoichiro/20180522-00085498/




昨今このネット社会では右か左かの二者択一風景が広がっており、中庸を保つことが非常に難しい時代となっている。
そういう意味ではこの立岩陽一郎氏の書いた記事はニュートラルな視点で書かれているように見え、なかばテーマとの齟齬生じることなく読み進めることが出来たわけである。

だが記事を二度ほど読み直して、この記事に徐々に違和感を覚え始める。
というより大きな欠陥、あるいはごまかしがあることに気づいたと言った方がよいだろう。

彼は論考の中で以下のようになんらかの記事を書くにあたってファクトチェックがもっとも大事であるということを述べている。

「ファクト・チェックという取り組みがある。これは米国を中心に世界に広がっているもので、公職にある人間の発言や報道された事実について事実関係を検証する取り組みだ。このファクト・チェックのルールを適用してこの「日刊ゲンダイ」の記事を判断するなら、残念ながら、「事実の提示が不十分で、読者をミスリードする内容」としかならない」

正論である。

昨今ネット社会では極端な例ではコピペでそれなりの体裁の整った記事を書くことが可能であることと、紙媒体のように取材費が出ないため「現場に行く」「人に会う」と言ったファクト・チェックの基本をおろそかにする言説が跋扈し、言葉というものに信頼感がなくなってきている。

そういう意味では「日刊ゲンダイ」の記事にはファクト・チェックがなされておらず、またそれを受けての前記のジャーナリストや学者の言葉にもファクト・チェックがなされていないと彼が述べているのは客観的に間違いとは言えない。

だが今回の問題に関して私個人が掴んでいる事実確認(ファクト・チェック)に照らし合わせるなら立岩陽一郎氏の論考にはあきらかな欠陥があることが透けて見える。

以下がそれである。

この記事を読んだ人は、この記者を40代或いは30代の中堅記者だと思うだろう。「定年間際の社員が行く」部署に異動させられたのがおかしいというのが記事の肝だからだ。
これについてA記者が所属するNHK大阪放送局報道部員に確認した。
「A記者は50代の半ばです。50代半ばより、少し上かと思います」


私は二度読み直して彼の書く記事に違和感を感じたと言ったのは「これについてA記者が所属するNHK大阪放送局報道部員に確認した」のくだりをてっきり「A記者本人に確認した」という風に誤読していたのである。

そしてこのくだりを違和感以上の「ごまかし」と感じるのは彼が記事を書くにあたって最大の取材源である本人A記者に直接取材せず周辺取材でお茶を濁していることだ。

私が個人的に掴んでいる事実(ファクト)を言うなら立岩陽一郎氏はA記者の4期下であり、かつて個人的にも親交があり、お互いの携帯番号も交換している。とうぜん年齢の把握など周辺取材をするまでもなく熟知しているはずである。

にもかかわらずA記者に一面識もない第三者のように装い、事案の本人にコンタクトをすることもなく、周辺取材でA記者の情報を得ている。
この立ち居振る舞いは自らの立場をニュートラルに見せるための”操作”と見えても致し方ないだろう。

この時点においてこの立岩陽一郎氏の記事は信憑性に疑問符を打たざるを得ないわけである。
私は立岩陽一郎氏の記事が政権に忖度していると言っているのではない。
疑問符が付くと言っているのである。

彼は論考の最後に「大事なのは政治的立ち位置ではない。事実だ」

というまっとうな言葉で結んでいるわけだが、本来取材というものの基本である「本丸に当たる」をおろそかにしているこの記事は、おのずとその「(大切なのは)事実だ」を放棄しているわけである。

そこで立岩陽一郎氏に問いたい。
なぜ携帯番号を知っていながら本人への取材をしなかったのか。
納得の出来る説明をしていただきたいと思う。

というのはこの事案は政治問題以上に、崖っぷちに立たされた人ひとりの人生がかかっている問題でもある。
私個人は政治問題より他人様の人生を左右する論考を書きながらも、そこに”人間(他者)”に対する思いが感じられないことに、なかば怒りを覚えるものである。




注・また、当A記者が森友問題スクープ以降、どのような処遇を受けていたかというファクトチェックが出来たあかつきには、新たな稿を起こすつもりだ。