東京で感染者が百人を越したということでメディアは大騒ぎをしている。
コロナウイルス問題が純粋に国内問題となったのは対岸の火事であったダイヤモンドプリンセス号の乗客が下船した3月1日以降。
したがって約4ヶ月となる。
問題が濃密なだけに、すでに人々の間には1年くらいこの問題に苛まれているとう感覚の錯誤が生じているように思うが、まだ4ヶ月なのである。
しかしながらそのわずかな期間に(この日本では少ないと言えるものの)感染者と死者が続出し、街では倒産した店が閉められ、失業者が続出していることも確かだ。
また健常者においてもこのコロナウイルス禍の「自粛という抑圧」の中において、真正の病には至らぬものの、ある共通した精神的外傷の前駆症状が生じはじめていると感じている。
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例えば今日のテレビでは昨日の西村経済再生相の記者会見の模様の一部が切り取って流され、その強いものの言い方がけしからんと出演者が口角泡を飛ばすかのように一斉攻撃している。
確かにそこだけを切り取ってみると西村は何か国民に対し強い口調でいわれなき苦情を述べているかのように聞こえる。
だが会見の模様を通しで視聴してみると、その話の流れからこれ以上感染が広がらないよう自粛を訴えている切実感がが伝わり、私個人はむしろ好感を抱いた(船長が官邸関連を褒めるのは珍しい・笑)。
https://www.youtube.com/watch?v=KPI9_3YQQvoさしたる勇み足でもなく、むしろ真摯に受け止めるべき内容に対してさえ皆が怒りの集中砲火を浴びせるこの光景は船長がここのところ感じているコロナ罹患なら軽度の国民病となりつつある「怒りの罹患」(自粛警察がこの典型だが)を典型的に表すものとして銘記するとともに、ひるがえって自からの日常の合わせ鏡としたい。
今のところは「怒りっぽい」「癇癪を起こす」程度の日常的異変で収まっていはいるがこの「怒りの罹患」なるものがマッス(塊)となった時、辻村君の投稿にある「参事便乗資本主義」ならぬ、その感情のマッスを利用する不穏な便乗(国民の欧米への怒りのマッスをマスコミと軍部が仕立て上げ、戦争へと突入した戦前がまさにこれだった)が生じないとも限らない。