Shinya talk

     

 

2021/07/27(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.71「2020年東京オリンピック開会式の夜に」(CATWALKより転載)

東京オリンピックがはじまった。

開会式の夜に八角堂でPodcastを収録した。



この東京オリンピックに関してはあたかも右派と左派の反目をそのまま引き継いでいるかのように世論が二分されていた(いる)わけだが、先の新聞インタビューでも述べたように、私個人はこれまで多くの国で文化破壊、環境破壊を行ってきたオリンピックそのものには反対であってもスポーツ選手たちの人生を賭した闘いそのものにはオリンピックならではの真剣さと神聖さがあり、それはそれで受け入れるべきだと話している。



今回のPodcastの私は冒頭で「開会式は及第点」という言葉を吐いているのもその意味合いがある。



例えば小道具丸見えのルームランナーを持ち出して来たり、自分のように映像に携わる者としては演出の粗探しをしょうと思えばいくらも目につく。



だが開会式競技場でパーフォーマンスをする若い出演者もまた闘うアスリートなのであり、カメラがアップした彼らの目の色や体の動きを見ていると、アスリート同様の一生に一度のパーフォーマンスをしているのだという真剣さがそこにある。

いくら演出にアラが見えようと、それは彼らの責任ではなく、そこに見える「人間」そのものを評価するという意味で私は及第点だと述べたのである。



例えば北野武は怒り狂ったかのように方々のメディアで開会式を貶しているが、彼は開会式そのものを遠目に見ているのであり、一人ひとりの人間に眼差しを向けていない。

いくら大きな会場であろうと、大勢であろうとそこには一人一人の人間がいるのだ。

というより、彼の怒りは東京オリンピックが決まった当初、総監督は北野武という名前が方々で持ち上がり、結果的に袖にされたことの怨念のようなものが彼の中にあるのではないか。

大人気ない。



組織体としてのオリンピックそのものと、己の人生をとしてIOCに貢いでいるかのようなアスリートたちとは別物であり、テレビコメンテーターがオリンピックを批判しながら、競技そのものには熱くなっていることを批判する向きがあるが、個々の競技に勤しむ若者とオリンピック という巨大組織は別物という観点に立つならそこには矛盾はない。

昨日は卓球混合ダブルスで日本ペアはついに中国の牙城を突き崩したが私は沖ノ島に参拝して以降、久しぶりに手を叩いた。











ところでこの前「山下清の日本紀行」というような番組をBSでやっていたが、その中で面白いことがあった。

山下清は温泉が好きで方々の温泉に入っているのだが、名前は忘れたが山梨の方の温泉地の情景を貼り絵で描いており、そこには大勢の裸の男女が立ったり座ったり、体を洗ったりしていた。

懐かしい情景だった。



私が高校のとき移り住んだ鉄輪においても当時は混浴が当たり前だった。

地区にはそれぞれ小さな温泉があり、高校生の私がその地区の風呂に初めて入った時、裸の女性高校生がいきなり入って来て度肝を抜かれた。

そのような日本の素晴らしい(笑)混浴文化ではあるが、番組では衝撃的なことが語られている。



当時を知る者の話として、この温泉も昔から混浴だったが、東京オリンピックを境に混浴が禁止されたというのである。

つまり混浴とは野蛮な文化であり、世界が注視する国際行事オリンピクの開催国としては恥ずかしいという意見が官僚の発言にあり、全国の自治体に御達しがあった可能性がある。



私個人も第一回東京オリンピック以降、鉄輪に帰っても混浴がなくなりなぜだろうと不思議な思いをしていたが、つまりこんなところまでオリンピックというものは文化破壊をしているわけである。




Podcast 藤原新也「新東京漂流」






     

 

2021/07/27(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.71「2020年東京オリンピック開会式の夜に」(

東京オリンピックがはじまった。

開会式の夜に八角堂でPodcastを収録した。



この東京オリンピックに関してはあたかも右派と左派の反目をそのまま引き継いでいるかのように世論が二分されていた(いる)わけだが、先の新聞インタビューでも述べたように、私個人はこれまで多くの国で文化破壊、環境破壊を行ってきたオリンピックそのものには反対であってもスポーツ選手たちの人生を賭した闘いそのものにはオリンピックならではの真剣さと神聖さがあり、それはそれで受け入れるべきだと話している。



今回のPodcastの私は冒頭で「開会式は及第点」という言葉を吐いているのもその意味合いがある。



例えば小道具丸見えのルームランナーを持ち出して来たり、自分のように映像に携わる者としては演出の粗探しをしょうと思えばいくらも目につく。



だが開会式競技場でパーフォーマンスをする若い出演者もまた闘うアスリートなのであり、カメラがアップした彼らの目の色や体の動きを見ていると、アスリート同様の一生に一度のパーフォーマンスをしているのだという真剣さがそこにある。

いくら演出にアラが見えようと、それは彼らの責任ではなく、そこに見える「人間」そのものを評価するという意味で私は及第点だと述べたのである。



例えば北野武は怒り狂ったかのように方々のメディアで開会式を貶しているが、彼は開会式そのものを遠目に見ているのであり、一人ひとりの人間に眼差しを向けていない。

いくら大きな会場であろうと、大勢であろうとそこには一人一人の人間がいるのだ。

というより、彼の怒りは東京オリンピックが決まった当初、総監督は北野武という名前が方々で持ち上がり、結果的に袖にされたことの怨念のようなものが彼の中にあるのではないか。

大人気ない。



組織体としてのオリンピックそのものと、己の人生をとしてIOCに貢いでいるかのようなアスリートたちとは別物であり、テレビコメンテーターがオリンピックを批判しながら、競技そのものには熱くなっていることを批判する向きがあるが、個々の競技に勤しむ若者とオリンピック という巨大組織は別物という観点に立つならそこには矛盾はない。

昨日は卓球混合ダブルスで日本ペアはついに中国の牙城を突き崩したが私は沖ノ島に参拝して以降、久しぶりに手を叩いた。











ところでこの前「山下清の日本紀行」というような番組をBSでやっていたが、その中で面白いことがあった。

山下清は温泉が好きで方々の温泉に入っているのだが、名前は忘れたが山梨の方の温泉地の情景を貼り絵で描いており、そこには大勢の裸の男女が立ったり座ったり、体を洗ったりしていた。

懐かしい情景だった。



私が高校のとき移り住んだ鉄輪においても当時は混浴が当たり前だった。

地区にはそれぞれ小さな温泉があり、高校生の私がその地区の風呂に初めて入った時、裸の女性高校生がいきなり入って来て度肝を抜かれた。

そのような日本の素晴らしい(笑)混浴文化ではあるが、番組では衝撃的なことが語られている。



当時を知る者の話として、この温泉も昔から混浴だったが、東京オリンピックを境に混浴が禁止されたというのである。

つまり混浴とは野蛮な文化であり、世界が注視する国際行事オリンピクの開催国としては恥ずかしいという意見が官僚の発言にあり、全国の自治体に御達しがあった可能性がある。



私個人も第一回東京オリンピック以降、鉄輪に帰っても混浴がなくなりなぜだろうと不思議な思いをしていたが、つまりこんなところまでオリンピックというものは文化破壊をしているわけである。




Podcast 藤原新也「新東京漂流」






     

 

2021/07/06(Tue)

藤原新也Podcast「新東京漂流」Vol.68「微粒子によるクライシス」

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