Shinya talk

     

 

2018/08/18(Sat)

記載漏れの件。

すでにこれは私のサイトCAT WALKで記述していることだが、記述漏れがあるので今回の件につき以下の文言を付け加える。




それは尾畠さんが現場に到達した時間のことである。


報道によるとはじめのころは20分、その後30分と報道されているが、この時間の間尺はおそらく時計で計っているわけでもなかろう尾畠さんのアバウトな時間感覚をもとにしている。


私が20分の報道内容をとったのは尾畠さんはもう少し短い時間で現場に到達していたのではないかとの思いがあったからだ。


人の歩く速度は1時間4キロメートル。

つまり1分66メートル。

祖父宅から現場までの距離が580メートル(560メートルとの報道もある)。

ということは単純計算すると580メートルを歩くには8.7分で足りることになる。


尾畠さんは78歳の今も日々8000メートルのランニングを行っており、山登りのエキスパートでもあるから、荒れているとは言えすでに山道のある登りは朝飯前だろう。


ましてやとりやまとカラスの鳴き声をめざし、一刻を争いながらターゲットに向かったとするなら急ぎ足だったということも考えられる。

ひょっとしたら彼は10分以内、あるいは6〜7分で現場に到達したということも想定内に置いてもよいだろう。

あくまでこの計算は私の憶測だが、かりにその憶測が当たっているとすれば尾畠さんはなぜ20分、30分と申告したのか。

その真意は不明である。

ひょっとしたら時間感覚にきわめてアバウトな方のかも知れないとも思う。

     

 

2018/08/16(Thu)

理稀ちゃん救出劇雑感。(Catwalkより転載)

青年の一連の殺人、幼児虐待、降雨による大規模災害、猛暑、熱中症死、翁長雄志さんの死(これは安倍政権が殺したようなものだ)、安倍三選の雲行き。



盆休み前後は芳しくないニュースのてんこ盛りで、聞こえて来るセミの声さえ鬱陶しく感じる日々だったが、大島町で行方不明になった二歳児の理稀ちゃんが大分からやって来た尾畠春夫さん(78歳)に救助された一件はすべての曇りを取り払うがごとき快挙だった。



世間では感動と賞賛が渦巻き、今朝のテレビ番組では尾畠さんのご自宅まで取材が入り各局順番待ちの状況だ。

例によってネットでは神という言葉が飛び交う。

それほど日本全体が滅入っていたということだろうが、私はこの救出劇の過程には少々異なった見方をしている。











ご承知のように理稀ちゃんが救助されてのち、尾畠さんはさまざまなインタビューに答え、囲みの記者会見もした。

そのおり彼が発見に至る第一の手がかりとして上げたものは「子供はここ(前太股)を使って上に上に上がる習性がある。下には絶対に行かない」というものである。

確かにその子供の習性に関する観相は当たっているかも知れない。

「山登り」という単語があり「山下り」という単語が存在しないように、上へ上へと登り、天に近づくという快感は子供に限らずあまねく人に備わった人間の習性であり、子供はさらにその習性に従順だと言えるだろう。



ただし思うに尾畠さんのその理屈は合っていたとしてもその上に登る”子供の習性”のみを手がかりに捜索をするというのはきわめて大ざっぱな方向付けに過ぎす、そのような大ざっぱな方向付けでわずか20分で理稀ちゃんを発見したとすれば、そこで奇跡が起こらない限り今回の救出劇はなかったと言える。

また150人体勢の捜索隊も必ずしも祖父宅から下のみを捜索したわけでもあるまい。



ということは尾畠さんに限ってそこに奇跡が起きたわけであり、ネットで神通力とか聖者とか神とか言われる所以だが、私は理稀ちゃんは尾畠さんの手によって見つかるべくして見つけ出された形跡があると思っている。



私は今回の幼児失踪に関し、このような島では起きえないことであり、不思議の感を抱くとともにその命を念じつつニュースを追っていたのだが、無事救出後各番組で報道された尾畠さんの会見やそれに続く個別のインタビューのずっと前、実は尾畠さんは理稀ちゃん発見直後に少数の記者に囲まれ即席の談話をしている。

その時、以降の記者会見の席やインタビューでは出なかった言葉がある。











彼は(出立のとき)「カラスがカーカーうるそう鳴くもんじゃけ」と口走ったのである。

そして彼はカラスという単語を口走ったとき、こういう言い方はしたくないが、というような素振りを見せ、それ以上は話さず、例の子供は上に上に行く習性があるという話に切り替えた。

そのとき記者たちはその「カラス」という言葉を完全にスルーした。

尾畠さんが口にしたカラスの意味がわからなかったからである。

だが私はこのカラスこそ今回の奇跡とも言える救出劇の隠れた立役者だと直感した。



ご承知のように今回の捜索は150人体勢の捜索隊が三日間捜索したが見つからなかった。

そんな中、尾畠さんは出立からわずか20分で580メートル先の理稀ちゃんの居る場所にピンポイントで到達している。

つまり彼は迷うことなく”その場所”に直行しているということだ。



彼はこれまでの経歴から自然を知り尽くし、優れた直感力を持った人だと思う。だがいくら彼が人の行動観相や自然観相に優れている人間だからと言って、子供は上に行く習性がある”という観相のみでピンポイントの場所に直行できるとは思えない。



つまり尾畠さんの「カラスがカーカーうるそう鳴くもんじゃけ」という言葉は一見そのあたりでカラスがカーカー鳴いているという風に受け取られがちだが、私個人は尾畠さんは580メートル先上空にとりやま”を見たのではないかと思う。



このとりやま(鳥山)は海にも立つが陸や山にも立つ。

そしてそのとりやまの下には獲物があるということだ。

その獲物は生きている場合もあり死んでいる場合もある。

ちなみに東日本大震災の現場では陸地に多くのとりやまが立った。

その下に溺死体があったからだ。

とくにカラスのような物見高い鳥は何か下界で異変があると騒ぎ立てる習性がある。

これは日常的に死体が転がっているインドにおいても同じことである。











尾畠さんがカラスと口走ってその直後不吉なことを言ってしまったかのように口を噤んだのは、多くの人がそう懸念していたようにひょっとしたら何らかの事故で理稀ちゃんは死んでいるのかも知れないというもうひとつの彼の中の想定があったからだろう。

つまり理稀ちゃんが行き倒れしていた場合、肉食のカラスは上空からそれを見つけ、虎視眈々と狙いをつけるということである。

かりに死なない場合でも2歳児のような小さな子供は捕食の対象となり、弱るのを待っているということもあるだろう。

ちなみに私の住む房総においてもこのカラスの振る舞いは人の死を予見するという言い伝えがある。

つまり普段カラスが飛ばぬような上空に円を描くようにカラスが群れ飛ぶとその真下の家の誰かが死んでいるか、あるは死に行く人がいるということを鋭敏に感じとっているというわけである。



尾畠さんはおそらくその不吉なカラスのとりやまを遠くに発見してピンポイントでそのとりやまの下に向かった。

私はそう考える。

その後の報道では現場に至るには幾つかの分かれ道があり、尾畠さんは迷うことなく行くべき道を選んでいる。

そのとりやまは理稀ちゃんが帰省していた祖父宅から東北に約580メートル。

私が釣りの時にいつも行っている海におけるとりやまの見立ては2キロ先まで効くので580メートルはとりやまの見立てとしてはカラスの鳴き声も聞こえる至近距離と言えるだろう。



20分の奇跡はかくして起こった。











その後、尾畠さんは記者会見や個別インタビューではこのカラスの鳴き声のことには一切触れなていない。

それは彼が隠しているというより、この話は理稀ちゃんの死を想定した不吉な話だからである。

そこに尾畠さんの他者への思いやりが出ているとも言える。

そしてまた今回の奇跡の救出劇にそのような隠された事実があったとしても尾畠さんの快挙に微塵も汚点が生じるものではない。



そしてそれ以上に今回の一件は助けたいという「念」の勝利でもある。

その「念」がとりやまを呼び込んだ

そのようにも考えられる。

その念とは愛に通ずる。

お盆を返上して捜索に汗かいた若者には頭の下がる思いだが、彼らにその念の強度があればとりやまも見えたかも知れないのである。

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