Shinya talk

     

 

2012/06/22(Fri)

看護師殺害容疑者の青年に関する雑感。

私の知人に少々オタク的傾向のある若いのがいて、以前いっしょに飛行機に乗ったとき、真ん中の席にいる彼はトイレに立つ際、通路側の席に座っている外国人女性の前を通らねばならなかった。



外国人女性は席を立ち通路を譲ったのだが、後ろの席でその様子を見ていた私は”これはイカンな”と思った。

彼はちょっと表情を変化させたが笑顔も”エクスキューズミー”の言葉もなく女性の前を通ったからだ。



懸念していた通り外国人女性は不快感をあらわにし、彼の隣に座ることを拒むかのように空いていた他の席に移った。



私はその一件は注意しておいた方がいいだろうとその後何日か経って、忠告をしたのだが、そのとき驚くべき言葉が返って来た。



外国人女性の前を通る時、会釈もし、笑顔も見せたというのである。

ただ私はこの眼ではっきりと彼が他者にわかる意思表示をしていないことを確認している。



この二人の間の齟齬は一体どこから来るのかと、思いめぐらすに、ひとつ考えに行き当たる。



彼は気持ちの上では会釈や笑顔の感情を持っていたのかも知れない。

だがその感情が顔の筋肉に伝わらなかったということではなかろうか。

そう思った。



私はオタク的な若い人であまり感情を表に出さない人を何人か知っている。

しかし身体で感情表現をしないから彼が感情を持っていない、あるいは希薄ということにはならないのだ。



私の観察では心の中が揺れることがあっても、それを身体表現(主に顔)に直結、あるいは連結しないという心と身体の間に不全が生じているとことではないかと思っている。



その不全がどこで生じたかと言うと、昨今の子供が一体にそうであるように、過去の子供に比べ、他者との濃密な心の関わりや身体接触が閉ざされるような環境下に置かれているという一つの遠因が考えられる。



他者と面と向かい合いながらの身体表現の錬磨がなされていないのである。

特にゲームや携帯に向かい合って成長した子にはその傾向は顕著だろう。



しかし彼の心が喜怒哀楽を持っていないかと言うと、それはそうではないと思う。

私の経験では心の揺れ動きというものは過去の世代より大きいのではないかと思うことがある。

だがその心の揺れが身体表現に連結しない。



そういうことではないかと思う。







浦安の看護師殺害で今日逮捕された西岡大志容疑者(26)が事件直後に記者らの質問に答えているビデオを見ながら、コメンテーターは「感情がない」「ポーカーフェイス」という言葉を使ったが、それは彼らのメンタルと身体の関係を知らない大人の観測であり、私は内部では相当心が揺れ動いていると見た。



http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20120622-00000013-ann-soci



人間は人間であり、本当にロボットのような人間はそうそう出現するものではない。



今日の一件では人間の身体と心のずれに思いが及んだわけだが、もうひとつ気になったことがある。



それは名前のことだ。



西岡大志。



きっとお父さんがつけた名前だろうと思った。



私はその名前を読んだ時、すぐに秋葉原無差別殺傷事件の青年の名前を思い出した。



加藤智大。



父親がつけた名前だ。

このふたつの名前には父親が子供に過剰期待する意思がはっきりと刻み込まれている。



私は人さまに名前をつけてくてと頼まれるとき、夏の盛りに生まれた子には朱夏(あやか)アメリカで生まれた日本人には日本の音を聴いてほしいとの思いから琴音(ことね)山間で生まれた子には遊花(ゆうか)といった風に、人の名前に人間の脳ミソでこねくったような「意味」を課さないようにしている。



意味は人を開放するのではなく人を縛るからだ。



昨今、子供への期待から意味で子供を縛るような名前をつけることが多いのは子供の成長にとって好ましくないと私個人は思っている。



西岡大志。

加藤智大はその「意味で縛る」名前の典型だ。



同じ「大」の字が入っているのが妙に痛々しい。



ちなみに遊花ちゃんは今年中学に上がるが、おっとりしていて花の周りに蝶があつまるように友達が癒しを求めるように彼女のまわりに集まってくる子に育ったらしい。



親にしてみればおっとりしすぎて困ると笑いながら言っていた。


(Cat Walkより転載)

     

 

2012/06/21(Thu)

原発問題に関しては情緒論ではなく、よりクールに対処する必要がある。

pict.gif

利権集団である地元自治体の長に最終判断を任せるという見え透いた茶番劇で政府が今回の大飯原発再稼働を強引に押し進めた件にしろ、上記のような結果にしろ、この日本という国においてはヨーロッパなどと異なり、良識では世の中は動かないということがはっきりとしたという現状を踏まえ、私たちが出来ることは原発国民投票に力を注ぐこと、および次期総選挙で上記のようなデータをもとに票によって議員の当落に関わるということだと思う。

その意味において国会議員の原発賛成組と反対組がこの場に及んではっきりと色分けされたということは貴重なデータであり、このデータは忘れずに精査しておく必要がある(当然原発稼働賛成の方はその限りではない)。

それにしても自民党の議員が202人中、河野太郎たった一人というのは過去の腐敗臭が骨の髄まで染み込んだ自民党という政党の何たるかがより明確になったということだろう。

あれほど体たらくの民主党の方がまだましというこの結果に唖然とする。



さてここでひとつ報告だが、昨年の支援金目的で「死ぬな生きろ」展で作品販売した収益および、会場での支援金、あるいはその後の支援金振り込みの総計は8、265、810円となり、その中から先日原発国民投票の運動資金として100万を拠出した。

若者が手弁当で一生懸命にやっていることに対する援護の意味もある。

本来寄付金、支援金の類は偽善的になってしまうのでこれみよがしの公表を控えるのが筋だが、今回は支援目的で作品を購入したり、寄付をしてくれた人がいる関係上、そのつど会計に関してはつまびらかにしなければならないというのが公表の理由だ。

今後、中にはそういう目的で使ってほしくないということもあるかと思うが、一応支援金の使い道は私に一任されたものとして私の方法論の中で使わせていただく。

急いてはことを為損じるの諺どおり、今後ふたたび福島にも足を運び、そのつどじっくりと考えながらもっとも”お金が生きる”かたちで動かすつもりだ。

藤原新也会員制サイト『CAT WALK』 6/19のトークより転載


     

 

2012/06/16(Sat)

文字が”生き物”として動きはじめる時。

「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」第一章「尾瀬に死す」が原作となった土曜ドラマスペシャル『永遠の泉(とわのいずみ)』は今日の午後9時(NHK総合)から放映される。



脚本を金子成人さんが書いているが、定評のある脚本家だけに、原作を自由に解釈し、その元となった「尾瀬に死す」の筋立てとはかなり異なったものとなっている。



撮影場所も尾瀬ではなく阿蘇だ。



人によっては原作を崩すのを嫌うらしいが、そのように原作が自由に羽ばたいて行く様を見るのは私としては心地よい。





本の装丁も同じだ。

最初の本である「インド放浪」の装丁は編集の担当者が私が美大に行っていたということで自分でやってみないかと言われ、やってみた。

表と裏が書体を反転した同じ図柄で、しかも花に囲われた火葬の死体を中心に置くという変わったもので(後にも先にも死体が表紙になった装丁というのはないだろう)当時は出版界にも自由な気風が満ちていたから面白いと言われた。

二作目の「チベット放浪」3作目の「逍遥游記」も自分でやった。

「チベット放浪」は坊さんの足だけの写真。

「逍遥游記」は台湾で撮った猫がデンと表紙になっている。

おそらく紀行文の本で猫が表紙になったものというのは(あるいは小説であろうと)ないのではないかと思う。



しかし任されるうちに作家が自分で装丁をするというのは違うのじゃないかと思いはじめる。



どこかに他者の意思が入った方が本としては開かれたものになると思った。

人が読み、その解釈の上で他者が装丁した場合、ひょっとすると自分のイメージとは異なる思ってもみない展開があるのではないか。

自分で全部をやることによって自分色が濃密に出るという利点はあるが、一方、本が全部自分色に染まることの閉鎖性もあるわけだ。



そういうわけで、近頃はこの人と思ったデザイナーに原稿を渡し、一切注文はつけない。

失敗もあるが(その時は注文をつける)へぇ、こういう解釈があったかと、その思ってもみない展開を楽しむ。



原作と脚本の関係もまた、同じだと思う。

原作者はまな板の鯉でよい。

どうなっと料理してくれというのが正しい。



原作というものはあくまで”書き物”であり脚本は俳優の演技や声や呼吸、そして場面展開などに置き換えられる。

それは文章という文字の世界をより生(なま)状態に”還元”する作業だ。



そして、その脚本を監督の元、俳優たちが演じる。

そこでまた脚本は監督や俳優によって自由に解釈され、さらにナマな”生き物”の世界に”還元”され、原作は言うに及ばす、脚本からも離れ、ついには生々しい”現実らしさ”を獲得して行く。



そういうものがドラマであり映画だと思う。

その時点では、もはやドラマは私のものではない。

私はただの観客だ。



試写会では、原作者ではなく、ただの観客としての私がそこにいた。

原作者がそういうスタンスで見ることの出来る作品はきっと佳作だと思う。

それは原作、脚本、演技、というものがそれぞれにおもねることなく独自の立ち位置を持ち得たということだからだ。





さて、ドラマの音楽はCat Walkの「メメント・モリ」に音楽をつけていただいた谷口尚久君が担当している。

彼にとってははじめてのドラマだという。

何度かダメだしがあって、相当追い込まれたらしい。



結果、追い込まれた甲斐はあったと思う。

この人がスマップや倖田來未やケミストリーの曲を作っているの?と思うほど、重厚感に満ちている。



おそらく彼はこのドラマ音楽を作ることによって手持ちの文体以外のもうひとつの文体を獲得したはずだ。



新しいことに挑戦するということはそういうことだろう。

人は時に自分を捨てることによって新しい局面に入る。

自分の手持ちの文体で凌ぐ、では成長が見込めない。

昨今の若い写真家はこの点が脆弱。

一つの文体を見つけると、そこから出ることを拒むかのようにずっとその文体を踏襲する。


何はともあれ、周りの人に伝えて皆さんでドラマを楽しんでいただきたい。





     

 

2012/06/08(Fri)

苦言ではなく提言である。



写真家・藤原新也、『平清盛』の汚れに苦言「人間の作為が見える」





写真家の藤原新也氏が6日、東京・渋谷のNHKで行われたスペシャルドラマ『永遠の泉』(土曜 後9:00 NHK総合 ※16日放送)の完成試写会後に大河ドラマ『平清盛』への素直な思いを語った。番組開始当初、兵庫県の井戸敏三知事が「画面が汚い」と発言し波紋を呼んだ同作に、藤原氏も「汚しが見えてしまう。いかに汚せるかという人間の作為が見えてくるから、どうしてもしらけてしまう」とカメラマンとして苦言を呈した。



http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20120606/Oricon_2012633.html



オリコンのエキサイトニュースにこのようなものが流れ、物議を醸し出しているようだが、この発言は一昨日のNHKでの報道陣を交えての「永遠の泉」の試写会でのものである。



試写会のあとは主演の寺尾聰さんと助演の鈴木杏さんのお二人がスクリーン前に出て話をされたのだが、そののちに客席にいる原作者の私にマイクが振られた。



まえもっての挨拶の申し出がはなかったのでアドリブで話したのだが、その折に出たのが、ニュースにもある「平清盛」に関するコメントだった。



とかくこういった記事は字数の関係で端折って書いてしまうので真意がなかなか伝わらないが、私がそこで語ったのは昨今のテレビ画像についてのことで、その際例に上げたのが「平清盛」だった。



今日、地デジ化して以降のテレビ画像は高精細になり、モニターの大型化とあいまって時には出演者の毛穴まで見えてしまうくらい、なんでもありありと映り込む。

ドラマを作る者はこういった”あからさま”な画像に対処する必要が出て来た。

”まんま”を撮ると妙にクリアーでドラマの空気感が、そのあからさまな解像度の前で人形劇みたいに見えてしまうのである。

ハイビジョンで撮られた韓流ドラマはその典型である。



こういった画像状況の中で制作側はいかに画面を汚しデジタル画像に自然なリアリティをもたらすか、に腐心するようになった。



その典型が「平清盛」なのである。



画面を見ればわかるようにしばしばコンスターチを薫き込め、時にハイキーに画像を飛ばし、あるいは種々のフィルターワークで”汚れ”を演出している。



私は基本的には「平清盛」は相当の努力のあとの見えるセットやこの汚しのテクニックを含め、当時代の空気感に迫っていると評価している。



したがって兵庫県の知事が画面が汚いと苦言を呈したその一件はただの個人的な嗜好的発言であり、あまり意味のないことだ。

というより、おそらく戦後の町や生活全般の汚れを経験している老世代からこのように若者と同じような”クリーン指向”的発言が飛び出して来たことに驚くとともに、このような老人がいることは老害以外の何ものでもないと思っている。



私が苦言を呈したのはそのようなことではなく、高精細になった画面、つまり”進化した画像”というのは映像表現にとってマイナスかということである。



「平清盛」に限らず、汚すことによって画像のリアリティを求めるドラマは増えており、それは情報をマイナスすることによっていかにアナログっぽく見せるかということなのだが、私はそのような姿勢は常々”逃げ”だと感じているのである。



コンスターチやフィルターワークや露出操作による”ごまかし”に頼るのではなく、高精細になった映像をマイナスではなくプラスと考え、それに堂々と正面から立ち向かい、これまでにはないリアルな映像を作り出すというのが本道ではないかと思っているし、私自身、圧倒的な高精細を誇る中判デジタルなどは、その長所を殺すのではなく生かす方向で表現に結びつけている。



これはものみなデジタル化に向かう時代の文化の問題である。



そういった時代は避けることは出来ないのだから、妙にアナログっぽいごまかしに逃げ込むのではなく、そのありありとした画像ならではの新しいリアリズムを見つけるというのが表現者(テレビ制作者も含む)の役割だと思うのだ。

その姿勢の中から新しい映像文化も生まれる。



私はそのようなことを言いたかったのだ。





さて、ひるがえって私はその会場でのコメントののち、試写された「永遠の泉」にも触れた。

これは私が原作者を抜きにしてのことだが、このドラマの画像は私は今言ったことを実践しょうとしている画像であり、はじめて試写を見て正直なところ驚いたのだ。



カメラマンはこのドラマで敢えて今考えられるカメラの中でもハイビジョン以上の映像の撮れる、最近発表されたキャノンの中判デジタルカメラを使っている。

これは先に私が述べたことからするなら不敵な挑戦だと言える。



彼は現今の機器ではそれ以上のものはない”ありあり過ぎる”画質を敢えて使おうとしたのだ。

コンスターチも妙なフィルターワークも露出の飛ばしなどもなく、しかもズームはなし。単玉一本で勝負している。



私が自分が原作者でありながら最後に感銘を受けたと言ったのは”お手盛り”発言ではなく、本当にそう思ったからだ。



この「永遠の泉」は”超高精細”でありながら、一部にシフトレンズを使っているのが少々気になるものの、ほぼ一切”汚し”のごまかしをすることなく、その超高精細を逆手にとって新しいリアリティを獲得している。



そういう意味では地味なドラマだが”画期的”というべき出来事だ。



さてその超高精細でありながらリアリティを獲得しているこの手法の成功の裏には当然皺の一本の動きまで見えてしまう。ありありとした画像に曝される役者の存在感と演技力があってこそのこと。



なんのことはない、要するにそのドラマの中で本当に役者がリアルに立っていればフィルムであとうと超高精細のデジタルであろうと、佳作は生まれるということに過ぎない。



ということは演技の嘘が全部見えてしまう高精細画層に曝された役者というのは、その高精細の中でこそ鍛えられるということになる。



その役者が役者になるための試練を画面を汚すことでみすみす逃してしまっているというのが昨今のドラマのように私には思えるのである。











     

 

2012/06/07(Thu)

警視庁が結局、菊池直子クンに多大なご祝儀を差し出したということだね。

藤原さん、こんばんは。

ここ数日のトーク、複雑な気持ちで読んでいました。



菊池直子容疑者の逮捕もびっくり。

警察が出していた資料と全然違う人。。。なんで分かったの??って不思議に思っていましたが藤原さんのトークを読んで合点がいきました。



第三のケース、興味深い謎解きですね。



私は通報した「友人」というのが女性なのか男性なのか気になります。

個人的には女性ではないかな、と思います。

そして(ものすごく飛躍してしましますが)、それは高橋寛人容疑者の前妻だったのではないかと。



報道で、菊池容疑者が逮捕された日は前妻と子供と食事中だったとありました。



離婚した人たちがどれほどの頻度で食事をしたりするの正直よくかわかりませんが(憎みあって別れたら会うのかどうか?)、何日も張り込んでいたとしても高橋寛人容疑者が長時間留守の間に逮捕されるというのはなんかタイミング良すぎな気がしますし、別に暮らしている女性がいながらも、前妻と頻繁に?会うような仲なら菊池容疑者がオウムだということを話していたかもしれません。



想像にしかすぎませんが、前妻はもしかして高橋容疑者とやり直したかったのかも?別の女性と長く暮らしながらも結婚しない元夫に理由を尋ね、菊池容疑者の素性を知り、嫉妬心から通報。。。



つまらない推理ごっこをお読みいただきありがとうございました。



最後に一点。藤原さんはトークで「菊池直子の女としての弱さが自らの首を絞めた」と書いておられました。完璧に逃げ切れなかったけれども、これが菊池容疑者の人間としての贖い方だったのかな、と思います。



                  ◉







藤原さんこんにちは



第三のケース、全く僕の想像ですが、

菊池→高橋の友人という経路で伝わったということもありうるのではないでしょうか。



その場合も、菊池の動機によってさらに2つのケースが考えられると思います。



(3−1)通報を覚悟のうえで話した。

逃亡生活をもう終わりにしなければならないという気持が高じていたが、自分自身が出頭する決断ができず、高橋にもその決断ができない中、そういう迂遠な手段をとった。これも想像ですが、通報をはっきりとその友人に依頼したわけではなく、その友人が菊池の意をくんで行動したのではないでしょうか。菊池が友人に話すことを高橋は知らず、友人は通報前に高橋にひと言知らせたかもしれないし、知らせていないかもしれない。



(3−2)菊池と高橋の友人の信頼関係の中で話した→そして友人の裏切り

安モノのドラマのシナリオがいくらでも書ける展開です。菊池と友人との間に恋愛感情があったとか・・・



菊池の早くもすべてを受け容れたかのような挙動(映像などから)、高橋の潔い(?)出頭などを見ると、僕は総合的に見て(藤原さんの第一のケース、第二のケースもふくめて)、この3−1のケース(通報を覚悟で、菊池が高橋の友人に話した)という状況がもっともしっくりきます。



                   ◉



そのまま第(3)のケースのになるかわかりませんが、私の感じたことを書かせていただきます。



菊池直子と同棲していた高橋寛人が菊池直子の逮捕を知ったのは「飲食店で前妻と子どもと夕食を取っていた最中だった」(YOMIURI ONLINE)という報道に接して、高橋寛人は菊池直子が逮捕されるであろうことを事前に知っていたのではないか、という気がした方は少なくないのでは…。



もちろんいっしょに食事すること自体、日曜日ということも考えればなおさら充分有り得ますし、偶然の一致かもしれませんが、もしこの報道が事実とするなら臭うというか…。



私は、ひょっとして、高橋寛人自身が匿名で電話するなどの手段で通報したのでは…なんて、ちょっとおめでたい発想もしてしまいました。



藤原さんの情報によると、通報したのは高橋寛人の友人、ということですし、

仮に、高橋寛人は菊池直子が逮捕されるであろうことを事前に知っていたとして、それはそのまま、藤原さんの憶測(1)、(2)にもつながりますし、むしろそう考える方がより有り得そうな気がします。



いずれにせよ、懸賞金の支払いの有無くらいは発表があるでしょうし、そうすればこちらの気も少しは晴れるかも…。



それにしても、どうであれ、確かに、切ない男と女の愛の物語ではありますねえ。



                 ◉



代表的な意見を三ケース取り上げたが、みんな四苦八苦してるようだな。



ひとつ言うと通報者は女性ではなく男性だ。



そこでいくつかの仮説は消え去ることになる。



実は私は菊池直子がアラフォーであることに着目した。



アラフォーの懊悩。



それはリミットに近づきつつある子づくりの最後の悩みに直面するということだろう。 菊池直子の若い時の写真を見ると、彼女はどちらかというと本能的に子供を欲する母性的な女性のように見受けられる。



彼女は十年間同居した高橋克也と離れ、同じ名前の男と2年間同居の末、今回の逮捕劇となった。



なぜ高橋克也と別れたのか。



それは菊池直子がずっと欲し続けた子づくりに逃走犯である高橋は首を縦に振らなかったからだ。

当然かも知れない。逃走犯同士の中の子づくりは前途多難であるし、産まれて来た子供のアイデンティティはどうする。



意を決して38歳の菊池直子は高橋と別れる。

そして子供をつくることに同意した現在の男に最後の臨みを託す。



そこでだね。



彼女はつい最近つわりに気づいたんだ。



どうも子供が出来たらしい。



そこで男と彼女はかねてより練っていた作戦を実行する。



いや彼女と男と男の友人と三者で共謀を企てる。



男の友人が警察に通報。



男はその時、前妻と食事。



べつにアリバイをつくる必要はないのだが、我関せずを装うには適当な方法だ。



菊池直子逮捕!。



それでよろしい。



菊池の量刑はせいぜい3年。



そのことはこの仮説を立てたおりに有田芳生さんに確かめている。



以下有田さんからのメール



「(菊池直子を)逮捕容疑の殺人、殺人未遂で起訴することはできるのか。

せいぜい殺人幇助ぐらいです。

サリンだなどと知らないのですから殺意はありえない。

ただ17年逃亡の事実は重いです。

それでも重くとも数年の実刑でしょう。

せいぜい3年でしょうか。

匿った高橋はおそらく不起訴あるいは裁判になっても執行猶予でしょう。

夫婦の場合は犯人蔵匿では罪に問われないからです。

「事実婚」とは警視庁も認めるところ。

いずれ晴れて夫婦になるでしょう。

これは平田信と斎藤明美も同じです。いずれ結婚します。」



ここまで来れば第三の仮説が何であるかはわかるでしょう。



3年経てば、晴れて獄中出産した彼女は3歳の子を連れて娑婆で待っていた男と大手を振って結婚。



男の友人は少人数の結婚式で彼女と彼にお祝いの寸志を渡す。



えっ。



この寸志、1000万も入っている。



3年前、警視庁からいただいた例の懸賞金だ。



男(高橋)が通報しても懸賞金はもらえないから、親友にこの謀議を持ちかけたということだね。



持つべきは本当に信頼できる友人だ。



1000万は子育てと夫婦生活を同時に営みはじめる高橋夫妻にとって素晴らしい贈り物だ。



まあ、結局この過大な贈り物は警視庁が菊池直子に託したとそういうわけ。



警視庁も味なことやるなぁ。



菊池直子が現在獄中でつわりを経験しているかどうかは神のみぞ知る。



警視庁がこの出来レースにじたんだ踏んでももう遅いね。



この作戦、どこにも穴がない。



完全犯罪だ。


(藤原新也会員制サイト Cat Walkより転載)









     

 

2012/06/06(Wed)

何あれ?、原発瀕死国の若者の無意味な熱狂って。と、諸外国から見ると、そうなるんじゃない。



俺が写真を撮った大島クンがAKB総選挙で一位に返り咲いたことは個人的には目出たいということになるが、このAKB総選挙の熱狂、先のサッカーワールドカップ予選の熱狂がそうであるように、内向きになって久しい平成の若者の”壮大な自慰行為”に過ぎない。

自分の一票が確実に結果に結びつき”現実”を変えることが出来るという点では、民意が反映されない現今の談合政治、原子力政策等に無力感を感じている若者にとってはある種のカタルシスだろう。

が、その変えた現実とは何か。

可愛い子ちゃんの集団に序列がついたという、たったそれだけのこと。

時代の閉塞に比例して盛り上がる無意味な熱狂。

この底抜けに明るいニヒリズム。

お前らはもう生ける屍だ。

悪寒がする。

そこでくたばってろ。

     

 

2012/06/05(Tue)

薄曇りのち雨。

20120605.jpg

今回の菊池直子逮捕劇。

どう考えても解せぬものがある。

昨日警視庁から発表された写真を見てそう思う。

写真家の私から見てもこれはあきらかに別人である。

写真が発表されない前は、一般市民の通報もあり得るかなと思っていたのだが、現、菊池直子の写真を見てそれは100パーセントあり得ないとの確信を持つ。現に彼女は17年間、それなりに日常的に関係を持った人々もいるわけだが、人々は彼女が菊池直子であることに気づいていない。

この現写真を見るとそれは当然だ。

私はこの写真を見て菊池直子は自ら出頭してきたが、市民からの通報によって逮捕という、つまり一般市民と警察の連携プレーによってめでたくことを収めたという(平田逮捕劇の失点の穴埋めとして)演出ではないかとさえ疑った。

くどいようだが、現、菊池直子は菊池直子ではない。

この煮え切れぬ謎は解消せねばならぬと、有田芳生さんに電話を入れる。

そこでやっと謎が解けたわけだが、この一件に関しては彼も詳細は公にしゃべっておらず、私が抜け駆けをするわけにはいかないので、いずれなんらかの形で情報が漏れるのを待つか、有田さんの合意を得た段階でトークに書くということになるだろう。

とここまで書いたところで有田さんから電話が入ったので、情報の開陳は可か不可かと問うたところ許可を頂いた。



当然警視庁も匿秘にしているが、通報した一般市民とは菊池直子と同棲していた高橋寛人の”友人”ということである。

実に哀しい。

これは男女の愛の物語の結末としては実に哀しい。

ここからは憶測の領域なので、想像のこととしてしか話すことはできないわけだが、考えられるのは、

(1)500万から1000万に懸賞金が上がったその懸賞金欲しさに友人がたれ込んだ。

(2)高橋と友人が”共謀”してたれ込んだ。

そのふたつのケースが考えられるわけだ。

しかし、かりに友人が独断でたれ込んだとしても、高橋寛人は菊池直子を裏切っているということになる。

おそらく菊池直子がオウムの逃走犯であることは、決して漏らしてはならない二人の間の厳重な秘密事項であり、お互いにそのことは十分に確かめ合っているはずだからである。

つまりその秘密事項を高橋は破ったわけだ。

いかに親しい友人であろうと、それはあってはならないことというのは彼も認識していたはずだ。

だが彼はその菊池直子との約束を破った。

その約束を破ったのが何時かということはわからないが、おそらく逮捕直近というのが妥当かも知れぬ。

これも憶測の領域だが、二人の間の愛情関係が冷めるような諍い、あるいは愛情の絆のほころびのようなものが露呈していたのかも知れない。

その段階で、裏切りが生じたということは一つの可能性としては考えられるだろう。

かりにそうであるとするなら、それはまた求婚をされた時にカミングアウトとしてしまった菊池直子の女としての弱さが自らの首を絞めたということだ。

とどのつまりは逃走犯は愛し合った人にもその素性を披瀝してはいけないということだろう。

男女の愛というものがいつまでも保証されるものではないことを愛し合ったものたちはつい忘れがちだ。

それにしても、菊池直子が着ているトレーナーがまた哀しい。

その胸に”SUNNY CLOUDS”(フェリシモというブランド)。

”薄曇り”とでも訳そうか。

彼女の17年間の煮え切れぬ気持ち感情がグレー色とそのワンワードに言い表されているようで、他人でありながら、何か切ないものがある。

ところで(1)に(2)以外の、第(3)のケース。

それは読者のご想像に任せよう。

第三のケース心当たりの方はご投稿を。

藤原新也会員制サイト『CAT WALK』 6/5のトークより転載



2001年から2011年まで10年間運営していました「藤原新也オフィシャルホームページCat Melon」は会員制ホームページ「Cat Walk」立ち上げに伴い、いったん休止しておりましたが、藤原の社会的発言は公に開かれたかたちであまねく知らしめるべきだとの意見も多く「Cat Walkブログ」のように更新頻度を保つことはできませんが、必要に応じるという形でブログを再開する(月に数回)ことになりました。
なお新「Cat Melon」立ち上げに伴い、会員制ホームページ「Cat Walk」の欠員募集も行います。
詳細は追って本サイト上で告知します。



201207のログ